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鈴木邦男 : ウィキペディア日本語版
鈴木邦男[すずき くにお]

鈴木 邦男(すずき くにお、1943年8月2日 - )は、当初の右翼から左翼に転向した日本政治活動家政治団体一水会」最高顧問、プロレス評論家予備校講師。「ヘイトスピーチとレイシズムを乗り越える国際ネットワーク」(のりこえねっと)共同代表。清美応援団員〔清美応援団 応援メッセージ 〕。
== 来歴 ==
福島県郡山市生まれ。税務署勤務だった父親の都合で高校生の頃まで東北地方を転々とした。17歳の時、浅沼稲次郎暗殺事件をテレビで見たことをきっかけに右翼思想に興味を持ち、春休み大日本愛国党を訪ね、総裁の赤尾敏と対面する。1961年東北学院榴ヶ岡高等学校卒業。ただし、卒業間際に聖書を読む時間中に読んでいた英単語帳を先生にストーブで燃やされたことに怒り、職員室に乗り込んでその先生を殴りその場で退学になる。その後半年間、教会に通って懺悔の生活を送り、翌年の9月、一人だけで卒業を迎えた。1967年早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。
学生時代は、生長の家学生会全国総連合(以下生学連)に所属し書記長として活動(母親の影響で小学生の頃より生長の家とはかかわっていた)。生学連もその結成に協力した民族派学生組織「全国学生自治体連絡協議会」(全国学協。後の全国学生協議会連合)の初代委員長を務めた。しかし、当時の書記長らとの対立が原因で短期間で組織を去っている。
1970年3月、早稲田大学大学院政治学専攻修士課程中退。学生仲間の森田必勝(元日学同活動家。楯の会に入会したため日学同を除名された)の誘いで教育学部に転部したが、左翼運動の退潮と共に自らの運動も敵を失い、大学を中退して仙台の実家に帰り、書店の店員を経て、同年4月、産業経済新聞社に入社。主に産経新聞の販売局や広告局に在籍し、一旦は政治活動から離れていたが、1970年11月の三島事件で森田が三島由紀夫と共に自決したことに衝撃を受け、1972年犬塚博英四宮正貴阿部勉ら生学連や学協時代の仲間などを中心に「一水会」を創設し会長に就任。さらに1973年防衛庁に乱入する事件を起こして逮捕され、懲戒解雇となる〔鈴木邦男の愛国問答:第28回 景山さんの憲法試案 マガジン9〕。
1981年12月22日ソ連大使館への暴力行為の容疑で警視庁大崎署から家宅捜索を受けた際、捜査令状を破ったとして現行犯逮捕され、公文書毀棄公務執行妨害の容疑で23日間の留置生活を送るが、嫌疑不十分で不起訴処分となる。この事件について鈴木自身は「令状の要点をメモしようとしたら警察官に令状をひったくられ、そのせいで破れた」、「独立義勇軍と一水会の関係を疑われたための別件逮捕」と主張している〔鈴木邦男『夕刻のコペルニクス』p.102-107(扶桑社1996年)〕。
会長時代の前半は、過激な実力行動で警察に検挙されたこともあるが、後半は、会の政治的な大衆活動からは一定の距離を置き、言論活動に力を注いだ。
1999年には一水会代表を退任。代表在任中より河合塾現代文小論文講師、日本ジャーナリスト専門学校講師等も務めた。河合塾では同じく現代文講師で左翼思想家牧野剛と「左右討論」などの企画も行った。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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