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鈴木 重朝(すずき しげとも)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。雑賀党鈴木氏の当主。 == 生涯 == 永禄4年(1561年)、鈴木重秀の長男として生まれたとされるが、重意(佐大夫)の子という説もあり、詳細は不明である。また、三河鈴木氏出身で鈴木孫一の養子となったとする説もある。 石山戦争では父や弟らと共に顕如に協力して織田信長と戦うが〔信用できる資料に重朝がはじめて登場するのは、1592年に秀吉の家臣として登場する頃であり、石山戦争の頃に雑賀衆として活躍したかどうかは不明である。〕、天正13年(1585年)に羽柴秀吉(豊臣秀吉)による紀伊征伐で雑賀衆が滅亡すると、秀吉の家臣として仕え、1万石を与えられた。以後、天正18年(1590年)の小田原征伐では忍城攻めに参加し、朝鮮出兵では肥前名護屋城の在番を務めた。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、西軍本隊に属して伏見城攻防戦の先鋒となって一番乗りを果たし、伏見城に籠もる鳥居元忠を討ち取った(伏見城の戦い)。戦後は浪人の後に伊達政宗に仕え、後に政宗の仲介により慶長11年(1606年)に徳川家康に直臣として3000石で召抱えられ、しばらくして水戸徳川家の徳川頼房の旗本として付けられた。 元和9年(1623年)に死去した。享年63〔没年には異説もあり、墓所や法号も不明であるため、明確な没年は考証の余地がある。〕。 跡を継いだ子の重次は水戸藩主・頼房の十一男を養子・鈴木重義として迎えたため、鈴木家は水戸藩の重臣として続き、子孫は「雑賀」の姓に改めた。また、歴代の当主は「孫一」を通称とした。なお、雑賀党の首領は代々「雑賀孫一」を名乗ることが慣例となっていた。孫一は「孫市」とも書かれることもあり、さらに孫市と孫一は全くの別人だったとする説もある。また、鈴木氏は重朝・重秀ら優秀な人物が石山戦争で活躍していたため、兄の重秀を「孫一」とし、弟の重朝を「孫市」とする説もある。実際、重朝の跡を継いだ子の重次は、雑賀孫「市」と名乗っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鈴木重朝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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