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鈴木長吉[すずき ちょうきち]
鈴木 長吉(すずき ちょうきち、 嘉永元年8月15日(1848年9月12日) - 大正8年(1919年)1月29日〔『官報』第1946号、大正8年1月30日。〕)は日本の金工家。号は鈴木嘉幸(かこう、よしゆき)。 == 生涯== 武蔵国入間郡石井村(現在の埼玉県坂戸市)で生まれた。比企郡松山の岡野東流斎に蝋型鋳金を5年間学び、18歳で独立、江戸で開業した。明治7年(1874年)に殖産興業の一環として日本の工芸品を西洋へ輸出する目的に設立された「起立工商会社」の鋳造部監督、2年後には工長となり、退社する同15年(1882年)までの間、次々と大作を手掛けて内外の博覧会へ出品、高い評価を得た。工業が未熟な明治初期の日本にとっては精巧な工芸品は貴重な外貨獲得手段であり、工芸品の輸出目的で設立された数々の企業は、廃刀令や廃仏毀釈の影響で仕事を失いつつあった当時の金工家にとっては貴重な生計手段であった。 西洋事情を良く知る林忠正の監修の下で西洋人好みに制作した「十二の鷹 」(東京国立近代美術館蔵〔十二の鷹 2011年11月9日閲覧。〕)は、明治26年(1893年)に開催されたシカゴ万国博覧会に出品された全作品の中で最も高い評価を得た作品の一つとなった。また同博覧会に出品された「鷲置物 」(東京国立博物館蔵)は後に重要文化財に指定されている。明治29年(1896年)6月30日〔『官報』第3901号、明治29年7月1日。〕にはその高い技量が認められ、鋳金家として帝室技芸員となった。 しかし明治後期の20世紀を迎える頃には、日本の機械工業が育ってきたために手間隙のかかる工芸品の制作は下火となった。日本の工芸品は粗製乱造や過度な西洋趣味への阿りにより評価を落としつつあり、また、極めて精緻で写実的な装飾を大量に施した鈴木の作風はアール・ヌーヴォーが隆盛しつつあった時代の潮流と合わなくなったことも重なり、鈴木は表舞台から姿を消すことになる。 晩年は養子をむかえて、金剛砥石業に転職。大正8年(1919年)1月29日午前0時10分、東京府下滝野川田端359の自宅において腎臓病にて逝去〔『東京朝日新聞』1919年1月31日朝刊、5面。〕。享年72。葬儀は下谷区谷中三崎町(現:台東区谷中)の延寿寺〔日荷堂にて行われた。長吉の晩年については詳しいことが分かっておらず、明治工芸界の重要な人物であり帝室技芸員にまでなった人物でありながら、晩年のことが明らかになっていないという点で長吉は特異な存在であり、その後の研究が期待されている。現在も延寿寺に長吉の墓はあるが長年近親者が訪れている形跡もなく(そのため墓は延寿寺の管理となっている)、寺としては近親者からの連絡を待っている。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鈴木長吉」の詳細全文を読む
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