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鈴木鶴雄[すずき つるお]
鈴木 鶴雄(すずき つるお、1915年4月1日 - 没年不明)は、和歌山県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手、一塁手、外野手。 == 来歴・人物 == 耐久中学卒業後、関西大学に進学。当時の関大は、創立した()ばかりの関西六大学リーグのみならず、大学日本一の座に就く()など、強豪として知られていた〔関西大学野球部-歴史 〕。鈴木も、北井正雄(のち阪急),西村幸生(のち阪神),黒沢俊夫(のち巨人など),西村正夫(のち阪急)らと共に関大野球部の黄金期を支えた。関大卒業後、台湾総督府に就職し、台南州嘉義に赴任。嘉義の現地チームでプレーしていた。 3月26日、名古屋金鯱軍に入団〔名古屋金鯱軍(1937年・野球回廊のHP) 〕。入団の経緯には、金鯱軍のスカウトが、捕手の広田修三を大阪タイガースに譲渡する代わりに、鈴木の入団交渉をタイガース側に要請したという裏話が伝わっている〔「日本野球球団史」大和球士 「53年・野球界1月号」より出典〕。低目に重い速球を投げ込むスタイルで、金鯱の主戦投手になった。1937年秋季シーズンでは、8月29日のライオン戦(西宮球場)で開幕投手を務め、9勝7敗,防御率2.43(7位〔年度別成績(1937年秋・日本野球機構オフィシャルサイト) 〕)の好成績をマークし、第1回東西野球対抗大会のメンバー(西軍)にも選出された〔職業野球東西対抗戦 - げんまつWEB・ZAQ 〕。春季シーズンにも、4月29日の名古屋軍(後楽園球場)で開幕投手を務めるが、既に入団時に痛めていた肩の状態が悪化〔沢村栄治人名辞典さ~と ※鈴木鶴雄の項を参照。〕。7月16日のイーグルス戦(後楽園球場)を最後に応召され、翌6月15日のイーグルス戦(後楽園球場)で復帰する〔職業野球!実況中継(14年 イーグルスvs金鯱 6回戦 ) 〕も、同年末に引退した。異常にインターバルの短い投手で、捕手からの返球を受けると同時に振りかぶっていたとも伝わっている〔。 プロ野球引退後は、大同特殊鋼野球部に所属。1942年の都市対抗野球大会ではエースとしてチームの準優勝に貢献した。戦後は、母校の関大野球部の監督を務めた。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鈴木鶴雄」の詳細全文を読む
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