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注連寺(ちゅうれんじ)は、山形県鶴岡市大網にある真言宗智山派(新義真言宗系)の寺院。戦後、一時的に新義真言宗湯殿山派の大本山として独立していた時期もある。山号は湯殿山。本尊は大日如来。 ==歴史== この寺は、833年(天長13年)空海(弘法大師)の開山と伝えられ、湯殿山派4ヶ寺〔他に本道寺、大日寺、大日坊。ただし現存は注連寺と大日坊のみ。〕の中で最も新しい。出羽三山神社では出羽三山(羽黒山、月山、湯殿山)の開祖を蜂子皇子(能除大師)としているが、注連寺や大日坊では湯殿山の開祖を空海とし、湯殿山と高野山を「空海によって定められ清められた、対となる聖地」としている。 天正9年(1581年)から天正10年(1582年)にかけて最上義光は新庄を中心に大宝寺氏(武藤氏)と争っていた。その最中、前森氏(東禅寺義長・東禅寺勝正)が謀反を起こし〔保角里志『南出羽の戦国を読む』 2012〕、武藤義氏の居城尾浦城(現・山形県鶴岡市大山)を取り囲む。寒河江荘に拠って義光と敵対していた寒河江高基は自ら六十里越を通り、縁戚関係にあった義氏の救援に向かうが、到着前に尾浦城は落ち義氏は自害してしまう。その際、大綱注連寺より三千仏の画像三幅対を持ち帰り、慈恩寺弥勒堂に寄進している〔寒河江市史編さん委員会 『寒河江市史 上巻』、1994〕。 出羽三山の参道のうち七五三掛口に位置し、注連寺から先が結界とされていたため、出羽三山が女人禁制の時代は「女人のための湯殿山参詣所」として信仰を集め、大いに賑わった。江戸時代初期には羽黒山の別当だった天宥(1592年-1674年)によって天台宗への改宗が図られたが、湯殿山派4ヶ寺が結束して幕府に訴え、湯殿真言を守った経緯がある。鉄門海上人(後述)らの功徳もあり1867年(慶応3年)には北海道函館に注連寺の出張所(現在の新注連寺)を開くなど、東国にまで広く知られるに至った。しかし、明治の神仏分離に伴い湯殿山を含む出羽三山がいずれも神社となると、湯殿山参詣所としての注連寺の役割は急速に失われ、寺は勿論のこと周辺の宿坊も次第に廃れ、住職も去り“破れ寺”への道を歩んだ。 そのような折の1951年(昭和26年)作家の森敦(後述)が注連寺に滞在。森はそれから20年余後の1974年(昭和49年)注連寺と七五三掛を舞台にした小説『月山』で第70回芥川賞を受ける。この小説はその後、同名の組曲(作曲・歌:新井満、1976年)や映画(監督:村野鐵太郎、1978年)などに派生、注連寺も一躍世間の注目を浴びることとなった。このため、その存在が再評価され、寺は現在みられるような姿になった。なお、現在の堂宇は明治時代に焼失したものを再建したものである。 2009年(平成21年)3月16日にフランス語版が発行された『ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン』では、注連寺が総合評価で二ツ星(近くにいれば寄り道をして訪れるべき場所.最高評価は三ツ星)に選定されている。個別評価は即身仏:二ツ星、天井絵画:一ツ星、鰐口:一ツ星など。 2009年(平成21年)2月25日以降、寺の門前(斜面下方)に位置する七五三掛地区が大規模な地すべりにより大きな被害を受けた。注連寺とその境内・施設への影響は無く、参拝・見学は通常どおり受け付けている。地すべりの被害家屋は同年12月までに全て取り壊された。被災者は集落を離れる意向を示しており、七五三掛には被害に遭わなかった1世帯のみが残っている。なお、七五三掛集落は映画『おくりびと(英題:Departures、2008年、監督:滝田洋二郎)』のロケ地でもある。ロケに使用された民家(2軒)は、地すべりの被害が軽微であったため、現地にそのまま保存されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「注連寺」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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