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鎌倉公方(かまくらくぼう)とは、室町時代に室町幕府の征夷大将軍が関東十か国における出先機関として設置した鎌倉府の長官。関東公方とも称するが、この場合鎌倉公方の後身である古河公方も含まれた呼称となる。 鎌倉公方はあくまでも歴史学用語及び鎌倉公方の自称であって当時の一般呼称ではない。当時の一般呼称は“鎌倉御所”か“鎌倉殿”である。また、鎌倉公方は将軍から任命される正式な幕府の役職ではなく、鎌倉を留守にしている将軍の代理に過ぎない。「鎌倉殿(公方)」の当初の正式な役職名は「関東管領」であり、上杉氏は「執事」であったが、やがて執事家が関東管領となり、本来の「関東管領家」が「鎌倉(関東)公方」となった。 == 歴史 == 1349年に足利尊氏と弟の足利直義が対立(「観応の擾乱」に発展)した際、直義に代わって政務を執るために上京した足利義詮の後を継いで鎌倉に下向した足利基氏を初代とする。 関東管領を補佐役として関東十か国を支配した(後に陸奥国・出羽国も管轄した)が、代を重ねるに従って京都の幕府と対立するようになった。将軍家と身分差が少なく、幕府が危機に陥るたびにそれを脅かす行動をとる傾向が強まった。1379年の康暦の政変の直前、第2代鎌倉公方足利氏満が幕府分裂の危機を察知して挙兵を企てたが、関東管領(上杉憲春)が諫死したことで断念した。また、1399年の応永の乱に際しては、今川貞世の仲介で大内義弘と第3代鎌倉公方足利満兼が連合を組む。一致団結して京都を攻めることが構想されたが、その前に大内義弘が戦死したため頓挫した。 永享の乱の際には関東管領(上杉憲実)とも対立し、第4代鎌倉公方持氏が敗れ、1439年に自害させられたことで一旦断絶した。 1447年に持氏の子成氏が幕府から鎌倉公方就任を許されて復活。後に幕府と対立した成氏が、1455年に下総国古河を本拠として「古河公方」と名乗るようになった(享徳の乱)。この乱によって鎌倉府は消滅し、古河公方は公方と近習(鎌倉府奉公衆の後身)が政務を行う体制に規模を縮小させたものの、享徳の乱終結後は関東管領とともに関東地方を支配する形態(「公方-管領体制」)を曲がりなりにも1570年代まで継続(ただし、最末期は北条氏が関東管領の権限を事実上掌握)させており、引き続き関東地方の支配者としての権威を保ち続けていた。 古河公方の末裔は江戸時代にも喜連川藩として存続した。徳川将軍家の臣下扱いではなく、いわば客分扱いの特別な立場にあり、明治維新に至るまでその権威を継承した。明治維新以降は華族(子爵)となっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鎌倉公方」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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