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鎌田 道章(かまた みちあき/みちあきら、1890年1月15日 - 1947年10月18日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 == 経歴 == 愛媛県出身。1911年(明治44年)7月、海軍兵学校(39期)を卒業し、1912年(明治45年)12月、海軍少尉に任官。海軍大学校(専科学生)、海軍砲術学校高等科で学んだ。第一次世界大戦では第二特務艦隊に属し、地中海で連合国艦船の護衛任務にあたる。 1920年(大正9年)12月、戦艦「陸奥」分隊長兼艤装員となり、軍令部出仕、スループ「大和」分隊長、戦艦「伊勢」副砲長などを歴任。1924年(大正13年)12月、海軍少佐に昇進。1925年(大正14年)5月、軽巡洋艦「木曾」砲術長に就任し、軽巡「阿武隈」砲術長、軍令部副官を経て、1929年(昭和4年)11月、砲艦「保津」艦長となる。1930年(昭和5年)12月、海軍中佐に進級し海兵副官に転じた。 1932年(昭和7年)12月、呉鎮守府副官に就任、戦艦「比叡」副長に異動。1935年(昭和10年)11月、海軍大佐に進級し、同月、軽巡「天龍」艦長となる。以後、給油艦「隠戸」特務艦長、装甲巡洋艦「出雲」重巡洋艦「加古」の各艦長、呉鎮守府付、重巡「足柄」艦長、兼軽巡「夕張」艦長を歴任。1941年(昭和16年)1月、海南島根拠地隊司令部付兼海南島特務部長となり、改組後に海南警備府付兼海南海軍特務部次長に就任。同年7月、横須賀防備戦隊司令官に転じ、同年10月、海軍少将に進級、太平洋戦争を迎えた。 1942年(昭和17年)9月、軍令部出仕となり、以後、第八艦隊司令部付、第8建設部長、第2特別根拠地隊司令官などを歴任。インドネシアアイタペに着任中の1943年(昭和18年)10月24日、オーストラリア軍M特殊部隊のレナード・シファート軍曹ら3人を斬首に処し、この時のシファートの処刑を写した写真が日本軍の残虐性を示すものとして連合軍により広く宣伝されることとなった。1944年(昭和19年)1月、大竹海兵団長に就任し、第二南遣艦隊司令部付を経て、同年8月、第22特別根拠地隊司令官に転じ、インドネシアバリクパパンの防備を担った。1944年(昭和19年)5月、海軍中将に進んだ。ボルネオの戦いでは、陸軍部隊を含む在バリクパパンの日本軍部隊の指揮を執り、防戦に努めつつ終戦を迎えた。 戦後、BC級戦犯に指名され、オランダ軍軍事裁判で有罪となり、1947年(昭和22年)10月、インドネシアのポンティアナックで絞首刑に処された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鎌田道章」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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