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長岡 実(ながおか みのる、1924年5月16日 - )は、日本の官僚。大蔵事務次官。 == 来歴・人物 == いわゆる海軍経理学校出身の「短現組」は、戦後の主計官僚の中でもエリートとして見なされていたが、長岡もこの線に洩れずに大蔵事務次官まで務めた。 大平内閣の不信任決議案可決と引き続いた“四十日抗争”のさなか、大平正芳急逝の五日後に大蔵事務次官を退任。1981年(昭和56年)7月、日本専売公社副総裁就任。その後、総裁に昇格し、専売公社が日本たばこ産業 (JT) として株式会社化した時に、初代社長として立ち会い、その後大蔵次官経験者の指定席であった東京証券取引所理事長に就任する。 1991年(平成3年)、野村證券の損失補てん問題や富士・協和埼玉・東海・住友などの各行不正融資事件など、“証券スキャンダル”と叩かれた一連の証券・金融不祥事が発覚した事に加え、鈴木永二会長の新行革審答申やウルグアイ・ラウンドを通じた欧米による金融の全面開放要求と相まって、銀行・信託・証券間の相互参入などの金融制度改革が一気に加速。そのため一連の証券行政の見直しに絡み、証券取引審議会の谷村裕会長、竹内道雄委員らが、長岡を残して退任した。大蔵大物OBであり、かつ、“NTTライン”と呼ばれた長岡 - 竹内 - 谷村 らの現・前・元東証理事長ラインは、金融制度改革にあたり、銀行が証券子会社を通じて流通資本市場に参入することには揃って慎重姿勢だったことから、土田正顕銀行局長や松野允彦証券局長らによる制度改革の必要上、当時の保田博次官が断を下したとされている〔『大蔵省 不信の構図』(栗林良光、講談社、1992年12月) P292 ~ P294 など〕。その後、国際証券取引所連合副議長に日本人として初めて就任。当時はちょうど松下康雄らの後継次官争いがあった頃であり、自身の志向する人事案の為に日本人初となる議長ポストには立候補をしなかったと云われている。 1998年(平成10年)に巨人ファンということもあり、渡邉恒雄のバックアップも受けながらプロ野球セントラル・リーグ会長に内定しながら、当時1995年頃の大蔵スキャンダルの風潮もあったのか就任しなかった。さらにこの件は、府立一中の後輩で、その後同じく大蔵事務次官まで上り詰めた吉野良彦が日本銀行総裁就任を固辞したことと併せて、よく引き合いに出されもしたが、当時の斎藤次郎大蔵事務次官ら現役組が吉野、山口光秀、平澤貞昭らを推挙していたのに対して、長岡は当初から自身の次官時代に官房長を勤めた松下康雄を推挙していた。 大蔵省から金融部門分離案が出た1995年当時、新金融庁は「霞ヶ関」総体でのリシャッフルであるべきことから、他省庁の金融部門も併せて分離統合するべきことを述べた。各省庁の勢力削減で相対的地盤低下防止を狙う大蔵省の焼け太りであるとの批判もでたが、「霞ヶ関」の制度疲労の観点からは、総体の観点から俯瞰したものとして評価する向きもある。 また大蔵省内では主計局が他局を睥睨するポジションにあるが、長岡が次官時代に主計に人材を集めすぎたために、他局の相対的な力の低下を招いてしまったとも述べている。 財団法人資本市場研究会理事長、財団法人アフィニス文化財団理事長などの他、東大ボート部淡青会長、銀杏会長、日比谷高校如蘭会長などに就任。因みに、一中先輩の竹内道雄に東大ボート部から大蔵省入りを勧められた。のちに竹内次官 - 長岡官房長ラインを組むこととなり、財務省では森永貞一郎 - 石野信一 - 谷村裕と引き続いて、さらに竹内以下の大蔵省主計本流OBラインが、省内外での主要な人事面でも関与・機能していることがいわれている。泉鏡花など文芸や音楽などに造詣が深いことでも知られている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「長岡實」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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