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長崎街道(ながさきかいどう)は、江戸時代に整備された脇街道の一つで、豊前国小倉(福岡県北九州市小倉北区)の常盤橋を始点として、肥前国長崎(長崎県長崎市)に至る路線である。57里(約223.8km)の道程で、途中に25の宿場が置かれた。 また現代においては、江戸時代の長崎街道に沿って走る国道200号や国道3号および国道34号の通称としても用いられる。 == 概要 == 江戸時代においては、鎖国政策の下で幕府が日本で唯一、外国との交易を行う港である長崎に通じる街道として非常に重視された。 筑前・筑後・肥前・肥後・薩摩の諸大名の参勤交代のほか、長崎奉行や西国筋郡代の交代、さらにはオランダ人や中国人の江戸参府や交易・献上品の運搬にも用いられた。 小倉と長崎をできるだけ最短距離で結ぶため直線状に整備されたため、遠賀川沿いや佐賀平野など平坦な箇所もあるが、概して道程は険しく、最大の難所である冷水峠(福岡県飯塚市・筑紫野市間)や、最後の難所である日見峠(長崎県長崎市)のほか、現在の佐賀県と長崎県の県境である俵坂峠(佐賀県嬉野市・長崎県東彼杵町間)、当時は筑前国・筑後国・肥前国の三国の境界が接する地点で、現在も福岡県と佐賀県の境界である三国峠(福岡県筑紫野市(筑前)・福岡県小郡市(筑後)・佐賀県基山町(肥前)間)〔現在は周囲の宅地開発などにより山が掘削されている。〕などの難所があった。 なお、江戸時代初期の開通時には、北方の手前で六角川に沿って南へと折れて塩田より塩田川を上り嬉野へと向かう塩田道が本道であったが、塩田川の度重なる氾濫によりたびたび通行が不可能となった。そのため、1705年(宝永2年)に、六角川支流の武雄川沿いに北方、そして当時から武雄温泉として賑わっていた塚崎を経由したあと南へ向かい嬉野へと至る塚崎道が作られ、こちらが本道となった。 1885年の『明治18年内務省告示第6号「國道表」』では、長崎街道がそのまま国道4号「東京より長崎港に達する路線」となった。1920年(大正9年)施行の旧道路法に基づく路線認定では、福岡市を経由して鹿児島市へ向かう国道2号「東京市より鹿児島県庁所在地に達する路線(甲)」、および国道2号から鳥栖で分岐する国道25号「東京市より長崎県庁所在地に達する路線」となり、八幡から筑紫野までの区間は国道から外された。1952年(昭和27年)の新道路法に基づく路線指定では旧国道2号が一級国道3号に、旧国道25号が一級国道34号に指定された。八幡から筑紫野までの区間は1953年(昭和28年)に二級国道200号八幡鳥栖線に指定された。 現在、北九州市(木屋瀬宿)や塩田町(塩田宿)では「長崎街道」と記した旗がPRとして並び、東彼杵町や大村市、佐賀市付近には道路沿いに道しるべの碑がいくつかある。佐賀市(佐賀宿)付近では佐賀城のすぐ北側を通り、防衛のためにぎざぎざと曲がりくねった道になっているほか、近年になって他の道路と区別して違う色の舗装がなされている。 砂糖が船運によって、経済発展していた長崎街道地域に大量に運ばれてきたため、菓子文化が他の地域と比べて発達しており、「丸ぼうろ」「カステラ」「鶏卵素麺」といった南蛮菓子が残っている。広義の長崎街道周辺には小城や飯塚といった菓子製造業が盛んな地域や、伝統行事に砂糖をふんだんに使う地域が多い。この事から、長崎街道は『砂糖の道』『シュガーロード』とも呼ばれる〔シュガーロード (村岡安廣『肥前の菓子 シュガーロード長崎街道を行く』(佐賀新聞社)より) - 羊羹資料館(村岡総本舗)〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「長崎街道」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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