|
長崎 重芳(ながさき しげよし、1914年 - 没日不明)は、日本のバレーボール選手、バレーボール指導者。元バレーボール全日本選手、元バレーボール全日本男子監督。元日本バレーボール協会理事。 “重砲“と呼ばれた猛スパイクで、戦前最高の選手と謳われたバレーボーラー。“球神“とも呼ばれた。広島県広島市出身。5寸9尺(約180センチ)、21貫(約80キロ)(中学4年時)。 == 来歴 == === 戦前 === 広陵中学(現広陵高校)で野球をするつもりだったが、親の反対に遭い1927年、広島二中(現広島観音高校)に進学。陸上競技で大活躍したことで、排球部(バレーボール部)に勧誘された。多田徳雄下で黄金期を創った神戸高商(現神戸大学)の中心選手・高橋哲雄と鎔米二の指導を受け、中学上級生並みの体格と人並み外れた運動神経で、すぐに当時の9人制バレー、エースポジションである中衛左に入ると、2年時・14歳で早くも全日本候補となる。 1929年、3年時にはチーム初の全国優勝(第4回全国中等排球選手権大会)をもたらした。以降1931年卒業までこの大会を3連覇。さらに同年中学の部が新設された明治神宮体育大会(国体の前身)も制した。ドライブ性の強キル(スパイク、当時はアタックといった)は、3人掛かりでブロック(当時はストップといった)にいっても止められず、相手前衛の指を骨折させたともいわれ、名前をもじり重砲(強力な威力の火砲、キャノン砲など)と呼ばれ後世まで語り草となった。劣勢になるとボールを長崎に集める攻撃は“オール重砲”と恐れられ、この後ゆくところ優勝をもたらした。1930年、16歳にして第9回極東選手権競技大会の全日本選手候補に選抜される〔図説、36頁〕。 その後は、早稲田大学政治経済学部に進学。広島二中の2学年先輩・赤城功が創部した早稲田大学排球部を、関東大学バレーの雄とした。1933年には、広島二中クラブのエースとしても日本一となった。当時の全国のバレーボール選手の目標とされ「その高き峰を打ち破るため精進を重ねた」といわせた。 1934年、第10回極東選手権競技大会で全日本選出。 当時の日本バレーの盟主・呉水雷倶楽部と全日本排球選手権大会(全日本選手権)で1934年から3年連続決勝で当たり1935年、呉水雷の4人揃った鉄壁ブロックを力ずくで打ち砕き、前田豊らと全日本排球選手権大会(全日本選手権)で日本一〔図説、37頁〕。早大の第一期黄金期を創った〔図説、37頁〕。 1936年には、日本大学バレー界として初の海外遠征(大連-奉天-ハルビン-京城)にも参加。 1937年早大卒業後は海外雄飛し、朝鮮鉄道管理局(朝鮮総督府鉄道局(鮮鉄))でも優勝した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「長崎重芳」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|