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長持栄吉[ながもち えいきち]
長持 栄吉(ながもち えいきち、1918年1月1日 - 2000年6月16日)は、静岡県出身のプロ野球選手。ポジションは外野手。 == 来歴・人物 == 島田商業学校で1935年の第12回選抜中等学校野球大会に出場した。第二次世界大戦では空母の翔鶴に乗艦しており、真珠湾攻撃にも参加。マリアナ沖海戦で翔鶴が撃沈されたとき、サメよけにフンドシを伸ばしたまま二時間も海を漂流したが、海面に漂っていた熱せられた油のため顔に火傷を負い浅黒い跡となって顔に残った〔中国新聞社「カープ50年」1999年、38頁〕。僚船に助けられ、呉市で治療を受けた。 東海製紙から東洋紡富田を経て、1946年にセネタースへ入団。1950年に大洋ホエールズへ移籍し、3月14日に行われた八幡市立桃園球場での公式戦で、のちに合併することになる松竹ロビンスの真田重蔵から大洋の選手として第一号の本塁打を打っている。翌年は広島カープに移籍。外野手として活躍する。1956年の大洋戦で代打満塁本塁打を打った。38歳での代打満塁本塁打は当時の最年長記録だった。1957年に引退。「モッチャン」と呼ばれファイトあふれるプレーと豪放磊落な性格でナインやファンから愛された〔。また、スライデイングキャッチや回転しながらのキャッチなどケレン味のある守備で観客を喜ばせるなどサービス面も人気の的であった〔。 マウンドを離れても、金も払わずに堂々と劇場に出入りしたり、車掌にサインボールを渡して故郷の島田駅に特急を臨時停車させるなどエピソードに事欠かない〔。 引退後は、大宮工業高校のコーチに就任し、1968年の第40回選抜高等学校野球大会で初出場初優勝した〔。さらに浦和学院の監督にも就任し、春3回、夏4回の甲子園出場を果たしている。2000年6月16日に心不全のため死去。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「長持栄吉」の詳細全文を読む
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