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長澤英俊[ながさわ ひでとし]
長澤 英俊(ながさわ ひでとし、1940年10月30日 - )は日本の彫刻家。現在の中国黒龍江省生まれ。 == 経歴 == 父親が日本軍の軍医として勤務していた満州国牡丹江省東寧(トウネイ―現在の中国吉林省東寧・トンニン)で生まれた。1945年の敗戦時、ソ連軍が満州に侵攻してきたため、長澤と家族は、突然の引揚げを余儀なくされた。助産婦だった母親の実家のある埼玉県比企郡川島郷三保谷村(現在の川島町)に定住した長澤は、県立川越高校時代に数学と絵画に傾倒し、多摩美術大学に進学してからは1963年の卒業まで、建築とインテリア・デザインを学ぶかたわら、空手と徒歩旅行に打ち込んだ。その間、東京上野で毎年開催されていた読売アンデパンダン展などをとおして「グタイ」、「ネオダダ」など当時最先端の前衛動向に親しく接し、芸術の本質が物質・物体に記録されなくても行為と精神に宿るものであることを理解した。 1966年、半年前に結婚したばかりの長澤は、世界的視野の中で芸術家になることを決意し、500ドルと自転車のみをもって単身、ユーラシア横断の旅に出た。タイ、シンガポール、インド、パキスタン、アフガニスタン、イラン、イラク、シリア等、アジア・中近東の諸地域でさまざまな文化遺産、習俗、宗教、生活との接触を重ねた末、トルコにたどり着き、たまたまラジオから流れるモーツァルトの音楽を耳にしたとき、自分がすでに西洋的な文物への親近感をどれほど多く身に着けていたかを実感した。それはまた、文化や宗教の多様性を尊重しつつも、相接する民族と文化の間では相違よりも類似の方が大きいとみる、のちのちまで持続する信念を彼に刻み込んだ体験でもあった。その後、ギリシャを経てブリンディジからイタリアに入った長澤は、各地の美術館や名跡をしらみつぶしに見て回り、1967年8月、ミラノにたどり着いた時点で旅の中断を余儀なくされ、またその地の世態人情に感じるところもあって、ヨーロッパの最西端まで行くはずの計画に終止符を打った。満州からの引揚げ以来、学生時代の徒歩による日本国内行脚から、ミラノまでの伝説的なユーラシア横断行へと、長澤の幼年期・青年期を彩った旅は、それ自体が時間と空間に生きる自身の存在の意味に対する彼の絶えざる問いかけの行動であったと思われるが、旅はまた、芸術することの意味を掘り下げて止まない彼の作品行為の一つ一つに刻まれて、その後の制作を色濃く性格づけることになった。 ほどなくミラノ郊外のセスト・サン・ジョヴァンニのアパートに拠点を得た長澤は、その地でエンリコ・カステッラーニ、ルチアーノ・ファブロ、マリオ・ニグロ、アントニオ・トロッタら優れた芸術家たちと知的・芸術的な交友関係を結び、日本から呼び寄せた妻公子との間に2児(竜馬、妙)をもうけた。とりわけファブロとは、評論家で美術史家のヨーレ・デ・サンナも交えて、1979年にミラノ市内に若い芸術家たちの交流・研鑽の場となる「芸術家の家」を共同で設立するなど、長澤がミラノ中心部のブラマンテ通りに居を移した後も、生涯の交わりを持った。長澤がミラノに定着した1967年からの数年間、イタリアは政治的動揺のさなかにあり、美術界ではファブロもその一員に数えられるアルテ・ポーヴェラの動向が国際的な注目を集めた時期である。しかし、長澤はその動向の至近距離に位置していながらも、いかなる党派、運動にも加担せず、単独で自身の芸術的課題を掘り下げてゆき、多くの個展・グループ展参加をイタリアとヨーロッパ各地で展開した。1990年から2002年まで、ミラノのヌオーヴァ・アッカデミア・ディ・ベッレ・アルティ(NABA)で諸外国からやってくる芸術志望の若者たちを熱心に指導した。また2004年からはミラノの国立ブレラ美術アカデミーと東京の多摩美術大学で客員教授を務めている。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「長澤英俊」の詳細全文を読む
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