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長瀬真幸[ながせ まさき] 長瀬 真幸(ながせ まさき、1765年(明和2年) - 1835年6月23日(天保6年5月28日))は、江戸時代の国学者・文献学者である。肥後国熊本藩の武士。通称は七郎平。号は田廬(たぶせ)、双松園。 == 来歴 == 幼少の頃、江戸時代中期の儒者である草野潜渓に学ぶ。父である長瀬正常からは有職を教わり、下益城郡守山八幡宮の神主守山河内(広豊)より橘家神道を学んだ〔熊本県立大学文学部日本語日本文学科 川平敏文編『肥後の和学者 上妻博之郷土史論集1』熊本県立大学文学部日本語日本文学研究室発行、2009、22頁〕。また、藩校時習館教授であり、肥後国学の独自の基礎を築いた高本紫溟からは国学を学び、帆足長秋の書籍を通じて本居宣長を知る〔鈴木喬編『熊本の人物』熊本日日新聞社、1982、108頁〕。やがて高本紫溟にすすめられ、伊勢に行き本居宣長の門人となり直接教えを受けた。伊勢と肥後を往復すること4回、高弟となった〔熊本県教育委員会『熊本の先覚者たち』秀巧社、1968、4頁〕。また、本居宣長の古事記伝の成果に基づき、宣長と共同で、古事記本文および訓みの定本である訂正古訓古事記を編集した。 江戸にも行き塙保己一の群書類従編纂に関わり、賀茂真淵門下の双璧である加藤千蔭、村田春海らとも交遊した〔熊本日日新聞社編纂『熊本県大百科事典』熊本日日新聞社、1982、610頁〕。万葉集をよく研究し、秀歌を選び「万葉集佳調」「万葉集佳調拾遺」などを編した。「肥後事蹟考証」「田廬集」など編著書は36冊にのぼる。文化・文政期の九州三大国学者〔九州三大国学者は、肥後の長瀬真幸、豊前の渡辺重名、筑前の青柳種信。〕の一人〔福本日南『清教徒新風連』実業之日本社、1916、344頁〕。 「国学とは古語を解明して古事を究明し、上代の神ながらの道を明らかにする学問である」というのが持論である。門下生は多く、中島広足、林桜園、和田厳足らがいる〔鈴木喬編『熊本の人物』熊本日日新聞社、1982、108頁〕。大正5年に正五位が贈られた。墓は、熊本市西区、本妙寺山中の花園墓地の高本紫溟の墓のそばにある。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「長瀬真幸」の詳細全文を読む
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