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長谷川天渓(はせがわ てんけい、1876年11月26日-1940年8月30日)は、20世紀初期に活躍した日本の文芸評論家である。本名は長谷川誠也。 新潟県刈羽郡高浜町出身、柏崎に育つ。高田中学入学後上京し、東京専門学校(早稲田大学)に学び、坪内逍遥や大西祝に学ぶ。卒業後は博文館に勤務し、雑誌『太陽』の編集にたずさわる。1899年、「小説家と時代精神」を発表し、評論活動にはいる。その後、1908年の「現実暴露の悲哀」にいたるまで、自然主義文学を擁護する立場から論陣をはる。 1910年、社命により渡欧してからは評論活動よりも出版者としての活動が主となり、博文館の取締役もつとめた。また、1921年には文部省の臨時国語調査委員もつとめた。1940年、胆嚢炎にて死去。 瀬沼茂樹は岩波文庫で『長谷川天渓文芸評論集』を編み、主要な評論を集成した。また、筑摩書房の『現代日本文学大系』の『文芸評論集』の解説で、「その議論は粗雑で大胆であったが、幻滅時代、論理的遊戯、現実暴露の悲哀などの多くの流行語を生む機敏さをそなえていた」と評している。 == 参考文献 == 『現代日本文学大系』の解説(瀬沼茂樹)、年譜(小田切進) 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「長谷川天渓」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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