翻訳と辞書 |
長谷川峻[はせがわ たかし]
長谷川 峻(はせがわ たかし、1912年4月1日 - 1992年10月19日)は、日本の政治家、自由民主党衆議院議員。宮城県栗原郡若柳町(現在の栗原市)出身。正三位勲一等旭日大綬章。 == 来歴・人物 == 早稲田大学卒業後、1933年に九州日報社(現 ・西日本新聞社)に入社。記者として活躍。この頃、緒方竹虎、中野正剛との知遇を得て、両雄の下で政治のイロハを学ぶ。1945年、緒方が東久邇宮内閣の国務大臣に就任すると、その秘書官を務めた。内閣では総理大臣の東久邇宮稔彦王の「国民諸君から直接手紙をいただきたい」との意向のもとで緒方のアイデアにより国民からの投書を募っていたが、稔彦王がすべての手紙を読むわけにもいかず、「平衡感覚を持った人」たる元記者の長谷川が手紙の整理役を務めた〔#袖井 (1991) pp.14-15〕。また、寄せられ整理された手紙の内容を稔彦王に進講するのも長谷川の役目であったが、その長さはときに3時間にも及ぶこともあった〔#袖井 (1991) p.15〕。1953年に自由党から宮城2区で衆議院議員に初当選し緒方を補佐するが、1955年の総選挙で落選、さらに翌年には首相就任を目前にして、師である緒方が急死してしまう。 1958年に国政復帰。自民党では緒方派を継いだ石井派に属す。池田勇人内閣で文部政務次官に就任。1973年の第2次田中角榮内閣第1次改造内閣、1974年の三木内閣では労働大臣、1982年の第1次中曽根内閣では運輸大臣を歴任。しかし、1988年の竹下改造内閣で法務大臣として入閣した直後、当時世間を騒がせていたリクルート事件に関連し、リクルートからの政治献金が発覚。任命からわずか3日後〔亀井静香は2010年6月8日に金融担当大臣に任命されてわずか3日後の6月11日に金融担当大臣を辞任している。ただし、亀井は2009年9月16日に金融担当大臣に任命されて在任して、2010年6月8日の任命は金融担当大臣の再任であるため、金融担当大臣としては連続して269日間在任している。〕で閣僚在任期間4日間の短命閣僚となり、戦後政治史では最短退任記録歴代1位となった。この退任劇は竹下内閣に少なからず影響を与えた。就任時の記者会見で「(リクルートと)ご縁がないからここに居られる」と大口をたたいたことが結果的に命取りとなった。 旧石井派が解消した後は、1979年に中川一郎が中心になって旗揚げした中川派に重鎮として参加。中川派解体後は石原慎太郎らと共に福田派→安倍派へ合流した。安倍の死後、派内で起こった三塚博と加藤六月の後継者争い(三六戦争)では、当時清和会座長であった長谷川の裁定で三塚を会長に推し、決着させた。 1992年10月19日、現職議員として80歳にて死去。当選回数は通算13回。日本遺族会会長も務めた。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「長谷川峻」の詳細全文を読む
スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース |
Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.
|
|