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長谷川時雨 : ウィキペディア日本語版
長谷川時雨[はせがわ しぐれ]

長谷川 時雨(はせがわ しぐれ、1879年明治12年)10月1日 - 1941年昭和16年)8月22日)は、劇作家・小説家。雑誌や新聞を発行して、女性の地位向上の運動を率いた。本名、長谷川ヤス。画家・随筆家の長谷川春子は末妹。
==生涯==
東京府日本橋区通油町1丁目(現在の東京都中央区日本橋大伝馬町3丁目)に、深造・多喜の長女として生まれた。深造は日本初の免許代言人(弁護士)の一人で、東京市会の有力者でもあった。多喜は御家人の娘であった。
5歳から12歳まで、秋山源泉小学校で寺子屋式の代用小学校で教育を受け、かたわら、長唄、踊り、お花、お茶、当時流行の二弦琴などの女子の躾けを受け、祖母には芝居へ連れられた。女に学問は不要という母に隠れて本を読み、14歳から行儀見習いに奉公した池田侯爵家でも、夜分は読書に耽った。17歳のとき肋膜炎を病んで家に戻り、佐佐木信綱の竹柏園に通って古典を学んだ。
1897年(明治30年)18歳の時に、父の命で鉄問屋の成金の息子と結婚させられたが、遊び人で釜石鉱山に追われ、それに嫌々従った3年間、勉強し習作し、1901年、短編『うづみ火』を投稿して『女学世界』誌の特賞に選ばれた。そのときは『水橋康子』を筆名とした。のち、『しぐれ女』、『長谷川康子』、『奈々子』なども使った。
1904年(25歳)、帰京し、引責辞職していた深造と佃島の屋敷に住んだ(離婚は3年後)。多喜は箱根で旅館を営んでいた。築地の女子語学校(現、雙葉学園)の初等科に2年通った。岡田八千代と知り合った。
1905年(明治38年)、読売新聞の懸賞に応募した戯曲『海潮音』が、坪内逍遙に認められて入選し、逍遙に師事した。そして次々と新作を発表して上演され、人気作者になった。釜石時代から文通した中谷徳太郎との仲が深くなり、1912年の第1次『シバヰ』誌にともに寄稿し、さらに翌年の第2次『シバヰ』5冊を中谷と発行したが〔早稲田大学図書館編:『シバヰ』、雄松堂出版 マイクロフィッシュ版 精選近代文芸雑誌集103(2002年)〕、喧嘩別れした。1912年には六代目尾上菊五郎らと『舞踊協会』を作って8回公演し、次いで翌年、『狂言座』を菊五郎と結成したが、公演2回で挫折した。たまたま、甥の育児・事業に躓いた母の面倒見・父の看病・鶴見への引っ越しなどに多用で、劇評は続けたものの、演劇界からは退いた。菊五郎とは生涯の親友であった。文学の面では、1911年『日本美人伝』、翌年『臙脂伝』を刊行。
1916年(大正5年)、無名だった三上於菟吉を知り、押し掛けられるように1919年から内縁関係の世帯を持ち、以降は12歳年上の姉さん女房として、三上を世に出すことに努めた。1921年頃から三上は売り出して放蕩し、時雨を悩ませた。父没後の母らの世話に忙しい時期でもあった。
1923年(大正12年)、岡田八千代との同人雑誌、『女人芸術』を出したが、関東大震災のため、2号で終わった。
1928年(昭和3年)、女性作家の発掘・育成と女性の地位向上のため、商業雑誌『女人芸術』を創刊した。時雨に大人気作家へ押し上げられて女遊びを続ける三上が、費用を負担した。世相のなかで左傾し、たびたび発禁処分を受け、資金に詰まり、1932年の48号目までで廃刊した。『旧聞日本橋』は、同誌に連載された。
1933年、『女人芸術』の仲間に励まされ、『輝ク会』を結成して、機関紙『輝ク』を発刊した。今度は、タブロイド判二つ折り4ページの、月刊の小型新聞で、発行・編集人は時雨、発行所は赤坂桧町の自宅、会員の会費で足らぬ分は時雨が自腹でまかなった。『女人芸術』の執筆者、新顔、男性陣を含む大勢が狭い紙面を充実させた。年齢順で、長谷川時雨、岡田八千代、田村俊子柳原白蓮平塚らいてう長谷川かな女深尾須磨子岡本かの子鷹野つぎ高群逸枝八木あき坂西志保板垣直子中村汀女大谷藤子森茉莉林芙美子窪川稲子平林たい子円地文子田中千代、大石千代子 /三上於菟吉直木三十五獅子文六葉山嘉樹大佛次郎など。会員からの投稿も多かった。『女人芸術』誌の後期の左傾を精算したような、編集だった。会員仲間でピクニックや観劇もした。
1936年(昭和11年)、三上於菟吉が脳血栓で倒れ、看病し、彼の新聞連載を代筆した。そして翌年、関東軍支那事変を始め、『輝ク』は『戦争応援』の方向へ旋回し、1937年10月の『輝ク』は『皇軍慰問号』であった。旋回に会員間の摩擦により、1938年には2度の休刊する。1939年(60歳)、女性の銃後運動を統率する『輝ク部隊』を結成し、慰問袋を募って送り、戦死者の遺族や戦傷者を見舞い、占領地や戦地に慰問団を派遣した。
1940年、陸海軍の資金により、文芸誌『輝ク部隊』および『海の銃後』を編んで、紀元二千六百年の前線へのお年玉とし、1941年1月にも『海の勇士慰問文集』を送った。『女人芸術』誌以来の本格的な雑誌であった。その1月から、『輝ク部隊』の『南支方面慰問団』の団長として、台湾広東海南島などを約1ヶ月強行軍した。その後も忙しくして、発病し、白血球顆粒細胞減少症のため8月22日早暁、慶應病院で没した。24日芝青松寺で営まれた『輝ク部隊葬』には600人が焼香、鶴見総持寺の長谷川家代々の墓地に葬られた。また『輝ク』は追悼号を出してのち、11月の103号で終刊した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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