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長谷川雪堤[はせがわ せってい] 長谷川 雪堤(はせがわ せってい、文化10年(1813年)1月 - 明治15年(1882年)3月15日)は江戸時代末期(幕末)から明治時代の絵師。長谷川雪旦の長男。姓は後藤、名は宗一。号に松斎、梅紅、巌松斎、雪汀。 == 略歴==
江戸出身。文政2年(1819年)生まれとも言われるが誤りと考えられる。早くから父に学び、粉本類には親子で模写したものが多く見られる。父譲りの技量を発揮し、名所絵や人物画を多く残した。中でも、相模国藤沢渡内村の名主が、林家や幕府の地誌編集事業と密接な関係を持ちながらまとめた地誌『相中留恩記略』は、父親の『江戸名所図会』の挿絵と同様、名所画家としての雪堤の名を高めた。また、尾張藩の「藩士名寄」に名は無いものの、同藩の同朋格として遇されたという〔徳川美術館編集・発行 『名古屋開府四〇〇年 徳川美術館・蓮左文庫開館七十五周年記念 春季特別展 王者の華 牡丹』 2010年4月10日、pp.93、159-160。〕。 父雪旦の死後はやや精彩を欠くなか、明治15年(1882年)70歳で亡くなる。墓所は父と同じ浅草の幸龍寺(関東大震災後に世田谷区北烏山に移転)。弟子に唐津藩御用絵師となり、明治以降も唐津で活躍した長谷川雪塘がいる。また、娘の長谷川雪真(本名・志奈子)も絵師だが、画歴は詳しくわからない。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「長谷川雪堤」の詳細全文を読む
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