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長谷部恕連[はせべ よしつら]
長谷部 恕連(はせべ よしつら、1818年3月10日(文化15年2月4日)- 1873年(明治6年)11月17日〔『幕末維新大人名事典』下巻、297頁。〕)は、幕末の福井藩士、明治初期の政治家。笠松県知事、岐阜県令。旧姓・加賀。幼名・貞吉。通称・吉之助、甚平。号・南村、菊陰〔『明治維新人名辞典』「長谷部甚平」782-783頁。〕。 ==経歴== 越前国足羽郡福井(現福井県福井市)で、福井藩士・加賀成守の三男として生まれ、長谷部宜連の養子となる〔。 福井藩では、目付役、勝手奉行、寺社奉行、町奉行、郡奉行などを歴任。財政に詳しく、横井小楠の影響を受け開国を唱えた〔。文久3年(1863年)、過激な尊王開国論を唱えたため蟄居となり隠居した〔。 明治維新後、慶応4年5月19日(1868年7月8日)、笠松県知事に登用された。同年6月28日(8月16日)、知事を辞したが、 同年8月20日(9月20日)に権知事に就任し、明治3年10月9日(1870年11月2日)、知事に昇格。明治4年11月22日(1872年1月2日)、笠松県が岐阜県に統合され、初代の岐阜県令に就任した。県内の行政区画の設置、取締局(警察)の設置、県庁の笠松から岐阜への移転、小学校などの設立、全国に先駆けて遊郭の廃止を行うなど、県政の基礎作りに尽力。1873年11月、在任中に死去した〔『新編日本の歴代知事』536頁。〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「長谷部恕連」の詳細全文を読む
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