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門脇 重綾(かどわき しげあや、文政9年10月18日(1826年11月17日) - 明治5年8月3日(1872年9月5日))は、江戸時代後期の武士(鳥取藩士)、国学者。初め将曹、のち少造と改めた。諱は重綾。 政治家の門脇重雄は二男。柔道家の門脇誠一郎は孫。 == 略年譜 == *文政9年(1826年) *:10月18日 - 伯耆国会見郡渡村(現・鳥取県境港市渡町)に日御崎神社の神官門脇重郷の子として生まれる *14歳の時に中野村の景山粛の私塾に入って漢学を学び、19歳で飯田秀雄に皇学と和歌を、21歳の時加納諸平に国学や和歌を学ぶ。 *安政5年(1858年) *:景山粛の命を受けて会見・日野両郡の『伯耆志』編纂の調査に従事 *万延元年(1860年) *:「行在或問」によって名和長年の子孫が九州柳川にあることを知り、その年の春、閏3月6日「俄におもふむねあって竺柴に出たらむ」と出発した *文久3年(1863年) *:9月 - 鳥取藩より召出され4人扶持を受ける *:12月 - 「伯耆志」編纂御用として会見郡、日野郡を調査 *元治元年(1864年) *:5月 - 京都詰周旋方 *慶応4年(1868年) *:1月 - 記録方周旋方兼帯 山陰鎮撫使西園寺公望の付添御用掛として松江藩の弁護に努める *:3月 - 200石を給される 徴士内国事務局権判事、伝宣諸侯掛、議政官弁事等を歴任 *明治2年(1869年) *:5月 - 弾正大忠。9月に起こった大村益次郎暗殺事件の兇徒処刑に異議を唱えて、翌年3月に謹慎を命ぜられる *明治3年(1870年) *:5月 - 神祇大佑 *明治4年(1871年) *:8月 - 神祇少輔 *明治5年(1872年) *:3月 - 教部大丞 *:8月3日 - 東京で没する。墓は渡町にある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「門脇重綾」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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