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---- __NOTOC__ 間宮氏は、近江佐々木庄に拠った宇多源氏佐々木氏の庶流とし、新左衛門信冬のとき伊豆国田方郡間宮村(静岡県田方郡函南町間宮)に住み、間宮姓を称したとされる。諸系図において、間宮氏の父子関係が一致するのは、後北条氏に玉縄衆として仕えた間宮豊前守信盛以降であり、この信盛以降、間宮氏の事績は明白となる〔鈴木かほる『史料が語る向井水軍とその周辺』新潮社図書編集室、2014年、56頁〕。 間宮信盛の知行地は、現在の横浜市磯子区杉田・川崎市川崎区・鶴見区上・下末吉・埼玉県入間・横浜市戸塚区小雀町・海老名市・横須賀市など六九八貫文余である(『役帳』)。間宮信盛(号宗三)は神奈川城代であり、居城の川崎城は川崎区砂子(いさご)宗三(そうさん)寺の地域と伝える。 間宮康俊(信盛の孫)の嫡子康信は父とともに北条氏政に仕え、永禄12年(1569)2月、駿河・伊豆の争奪戦で武田信玄の伏兵(ふくへい)を薩埵山で追い上げ、敵を数多討ち捕え「弥粉骨を竭すべきの条」という感悦の判物を給ったが、天正10年8月家康方と甲斐・信濃の争奪戦の最中、甲斐御坂(みさか)において敢えなく討死した。間宮康俊の二子信次は、天正15年8月、北条氏康方として安房里見勢と戦い、三浦郡走水において、郎従六五人とともに戦死したとされる。 == 山中城合戦 == 間宮信盛の孫康俊は、天正18年(1590)3月、伊豆山中城主松田康長の副将として同城を守護し、羽柴秀次らのために戦死している。山中城は永禄年間(1558~70)、北条氏康が韮山城とともに西方防備の拠点として箱根山の西麓に築き、豊臣秀吉の攻撃に備えた城である。間宮康俊が戦死した岱崎(だいさき)は、豊臣軍の攻撃に備え山中城に増築した出丸であり、未完成のまま総攻撃をうけ、僅か半日で落城した。現在、山中城址に建つ宗閑寺は、間宮康俊の死後、徳川家康のお側に仕えた康俊の女が、父の菩提を弔うべく家康に請うて開基したと伝え、同寺境内には、山中城で戦死した城将松田康長や敵方秀吉の武将である一柳直末らの墓碑が存在する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「間宮氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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