翻訳と辞書
Words near each other
・ 関塚隆
・ 関塾
・ 関外余男
・ 関大
・ 関大FC 2008
・ 関大一中
・ 関大一高
・ 関大前駅
・ 関大明神社
・ 関大連
関天培
・ 関太
・ 関太一
・ 関子嶺
・ 関子嶺会議
・ 関子嶺温泉
・ 関孝二
・ 関孝司
・ 関孝和
・ 関孝和 (小惑星)


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

関天培 : ウィキペディア日本語版
関天培[かん てんばい]

関天培(かん てんばい、1781年 - 1841年2月26日)は、中国末の武将は仲因、滋圃とす。は忠節。清朝の民族的な英雄として高く評価されている。
== 生涯 ==
山陽江蘇省淮安県に生まれた。若い頃は一兵卒から立身し、長じては道光年間の清朝において重きをなした。『籌海初集』などを残した。江南提督従一品広東水師提督を歴任。人望が厚く、身分をこえて慕われたという。その生き様は、のちの曾国藩らにも影響を与えた。
条約決裂をうけてアヘン禁止が布かれた際は、虎門でアヘン焼却を敢行。イギリスとの主戦論をいち早く支持した。阿片戦争(アヘン戦争)勃発後、康熙帝時代に築かれていた虎門要塞を拡充、整備。広東防備と強化を唱え、イギリス艦隊を迎え撃つ。道光21(1841)年2月6日、大佐チャールズ・エリオット率いるイギリス軍の精鋭部隊と抗戦。虎門の戦いでは凄まじい攻防のなか自らも虎門要塞で奮戦し、最期は攻めかかる敵軍の一隊をおびき寄せ、もろとも玉砕したと伝えられている。その戦いぶりに感銘を受けた敵軍イギリス艦隊(ブレンハイム号)は弔いの礼を尽くし、その死を悼んだ。淮安県楚州区には碑があり、林則徐は書を贈ったという。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「関天培」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.