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飛鳥井 雅有(あすかい まさあり、仁治2年(1241年) - 正安3年1月11日(1301年2月20日))は、鎌倉時代の公家・歌人で羽林家の飛鳥井家の当主。初名は雅名。父は飛鳥井教定。母は北条実時女、『尊卑分脈』では源定忠女。子に雅顕。養子に雅孝。 父の教定とともに関東祗候雲客諸大夫の一員として、鎌倉幕府に信用され、京都・鎌倉で活動した。 == 生涯 == 仁治2年(1241年)鎌倉で生。翌年叙爵。建長3年(1251年)改名し従五位上で侍従となる。以後昇進していき、弘安元年(1278年)従三位、正応2年(1289年)従二位。 正応4年(1291年)、参議に就任。のち兵部卿を経て永仁3年(1295年)に民部卿、同6年(1298年)に正二位に至る。正安3年(1301年)1月11日薨去。享年61。弟・基長の子で養子の雅孝が飛鳥井家を継いだ。 永仁元年(1293年)8月には、二条為世・京極為兼・九条隆博の三人とともに勅撰集の撰者に指名された。しかしこの企画は中絶している。収録された歌の初出は『続古今和歌集』。勅撰集に入集したのは計72首。 私家集『隣女和歌集』がある。日記・紀行類としては『仏道の記』、『嵯峨のかよひぢ』、『最上の河路』、『都路の別れ』(以上の4種を「飛鳥井雅有日記」とも)、『春のみやまぢ』など。また蹴鞠の書の『内外三時抄』がある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「飛鳥井雅有」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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