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高橋名人(たかはしめいじん、本名:高橋 利幸(たかはし としゆき)、1959年5月23日 - )は、日本のゲーム関係者、歌手。ファミコン全盛期にハドソン(現・コナミデジタルエンタテインメント)所属の“ ファミコン名人 ”として一世を風靡した。所属事務所はBe.Brave Group、アミュレート。 北海道札幌市西区琴似出身。身長163cm、体重68kg。なお、「高橋名人」という名称はハドソンが商標登録していた〔登録番号 第4994766号〕が、ハドソンとの話し合いにより退社後も役職として名人を使用している。 == 経歴 == 札幌市西区生まれ。東海大学付属第四高等学校卒業後、北海道自動車短期大学に進学するが、スーパーマーケット「札幌フードセンター」でのアルバイトに熱中しすぎて3ヶ月で退学し、そのまま入社した。 3年間働いて青果部の主任に昇格した1981年春、仕入れや在庫の管理、伝票整理のわずらわしさから逃れるため、たまたま入ったマイコンショップでシャープのMZ-80Bを購入したのがゲーム業界に関わる切っ掛けとなった。せっかく購入したものの、当時のパソコンは使う側にかなりの知識を要求したにも関わらず特に知識もなかったため埃を被っていたところを、毎月手元に届けられるローンで支払わねばならない金額を見て一念発起し、BASICのコマンドを30程度覚えた所で札幌フードセンターを退職、その後カルチャーセンターの講師に就き、教える側になる。そこで生徒から様々な質問を浴びせられる内に、それに応える為に自身も知識を深めていった〔。そうして培った技能を元に1982年8月、友人の影響でハドソンで面接を受け入社。当初は営業部に所属していたが、ハドソンのファミリーコンピュータ参入をきっかけに宣伝部に移る。 1984年7月にハドソンがナッツ&ミルクとロードランナーを発売してから、月刊コロコロコミック編集部との親密な関係が始まり、週の内五日は同編集部に通うという状態が一年間は続いた。当時コロコロはすがやみつる原作の『ゲームセンターあらし』の連載が終了し、次の人気連載となる作品を模索していた所、ほどなくしてそれがすがやの元アシスタントであったあさいもとゆき原作の『ファミコンロッキー』などに代わり同社の作品が作中で使われることが多かった為、ハドソンと名人が絡んで行くことになる〔“高橋名人”という社会現象――高橋利幸氏、ファミコンブームを振り返る(前編) (2/5) - Business Media 誠 〕。 1985年3月15日、百貨店〔東京・松坂屋銀座店〕の屋上で行われた月刊コロコロコミックの催し「コロコロまんが祭り」にハドソン社員として参加し、1000人ほどの親子連れの前でファミコンの『チャンピオンシップロードランナー』を実演した所、2~300人が残ってサインをねだる事態となった〔。この催しの成功を受けて、ハドソンはハドソン全国キャラバンなどの立ち上げを急遽決定。ゲームの実演役として高橋が指名され、また将棋や囲碁に倣い「名人」という呼称を使うことになった。ここに「高橋名人」が誕生し、5月3日の「コロコロまんがまつり・スターフォース発売前ファミコン大会」にて名人として初登場した〔〔また、それまでコロコロコミックに本名で登場していたが、この決定を受けて、翌月発売の号から高橋名人に切り替えられている。〕。 同年に行われた全国キャラバン(『スターフォース』)で「16連射」を披露し、これがコロコロコミックで取り上げられると一躍子供たちのヒーローになった。また、毛利名人を筆頭に他社からも続々と名人が名乗りを上げ、ファミコン名人という流行を作り出すことになった〔16連射、ゲームは1日1時間の裏側――高橋利幸氏、ファミコンブームを振り返る(後編) (5/5) - Business Media 誠 〕。その中でも本家本元の高橋名人は人気が別格であり、8月14日にはTV出演〔“高橋名人”という社会現象――高橋利幸氏、ファミコンブームを振り返る(前編) (4/5) - Business Media 誠 〕、晴海国際貿易センターに四千人を集めた12月22日の「クリスマスファミコンフェスティバル」は翌日の東京新聞〔東京新聞 1985年12月23日〕で特集され、さらにフライデー、週刊文春でも取り上げられることで、ファミコンが一大現象になっていることを一般社会に知らしめた〔“高橋名人”という社会現象――高橋利幸氏、ファミコンブームを振り返る(前編) (5/5) - Business Media 誠 〕。翌1986年にはこども電話相談室準レギュラーに就任した〔高橋 (2009) p.44-45〕のを始め、CDデビュー、漫画化、映画化、ゲーム化など積極的にメディアミックスを図り、キャラクターとしても愛される存在になっていく。 しかし、翌1987年にハドソンがNECホームエレクトロニクスと共同開発したPCエンジンが発売されると、PCエンジンソフトの宣伝に回されることになり、ファミコン業界から離れることになる。煽りを受けることになったのはコロコロコミックで連載されていた漫画『ファミコンランナー高橋名人物語』(河合一慶原作)で、表題に「ファミコン」の名称が使われていた為途中打ち切りとなり、最終巻が発売されなかった〔高橋 (2009) p.46-47〕〔ただし、同作は名人と札幌に関係づけて出鱈目な創作を繰り広げた作品であった。なお、ゲーム『高橋名人の冒険島』シリーズはその後もファミコン、スーパーファミコンで発売されている。ちなみに『高橋名人の冒険島IV』は、ファミコン最終作品として1994年6月24日に発売された。〕。 その後は、後進の指導などにあたり、1998年から2000年にかけてハドソンの子会社「未来蜂歌留多商会」へ営業部部長として出向、トレーディングカードの制作販売を監督する。2000年、ハドソン大阪支社を経て、ハドソンがコナミの子会社になって自社流通事業から撤退したのを機に東京支社へと戻る。 2000年代初頭に起きた新世代テクノポップバンドの盛り上がりの中で、高橋名人再評価の機運が高まり〔電子音楽であるテクノとゲームミュージックはその距離が近く、欧米ではデモシーンを通じてクラブなどで格好のいい音楽として子供だけでなく若者に受けていた。その流れはチップチューンとして花開いていく。〕、2001年に宇宙ヤングと楽曲を発表。2002年5月から2003年11月にかけて3回行われた宇宙ヤング主催の『高橋名人のBugってナイト』では、かつて発表した楽曲の歌唱はもとより、16連射スイカ割りなども披露した。この直後からレトロゲームが再評価されるようになり、再び高橋名人として媒体に登場するようになった。 2004年12月6日、営業職から宣伝部へ異動〔HUDSON DIGITAL EXPRESS vol.20 編集後記 〕。2006年11月には、ハドソン内での役職名も「名人」となる〔 - 名刺の画像が見られる。〕など、名人推しは続いた。(なお、名人という役職だが、事実上はコンシューマコンテンツ事業本部宣伝部部長。) 2011年5月31日、ハドソンを退社し、同年6月1日にゲッチャ・コミュニケーションズに入社。ハドソン退社の理由として、ハドソンの業務からコンシューマーゲームが消えたことを挙げている。なお、ハドソンとの交渉により「高橋名人」の名は引き続き使用できることになった。 2011年12月9日夜、自身がMCとして出演するニコニコ生放送の番組『電人☆ゲッチャ!』で、同日入籍したことを発表した。 2012年10月、ゲッチャ・コミュニケーションズの買収に伴い、ゲームプレゼンテーターとして株式会社MAGES.に移籍〔高橋名人がゲームプレゼンテーターとしてMAGES.に入社! - ファミ通.com 〕。 2014年6月、企画、開発、運営まで、ゲームに関わるすべての業務を行う株式会社ドキドキグルーヴワークスを設立し、代表取締役名人に就任〔高橋名人が代表取締役名人に就任――ゲームに関わるすべての業務を行う株式会社ドキドキグルーヴワークス設立 - ファミ通.com 高橋名人:代表取締役名人に ゲーム新会社経営に乗り出す - MANTANWEB(まんたんウェブ) 〕〔世界にドキドキを!|高橋名人オフィシャルブログ「16連射のつぶやき」 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「高橋名人」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Takahashi Meijin 」があります。 スポンサード リンク
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