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1760年の征服(英:conquest of 1760、仏:La conquete)は、フレンチ・インディアン戦争後の、フランス領北アメリカ(ヌーベルフランス、特にカナダのケベック)のイギリスへの譲渡を意味する歴史用語である。 ==イギリスの戦略== 1759年、エイブラハム平原の戦いの後、フランス軍は一旦モントリオールに撤退し、翌1760年の4月に、サントフォワの戦いでイギリスに勝利した。しかしイギリス軍は、城塞の裏側に陣取って包囲戦に出た。5月に、援軍であるイギリス海軍の艦隊がケベックに入って来たため、フランス軍は再びモントリオールに撤退した。イギリス軍は、次はそのモントリオールに集結し、フランスはこの年の9月8日に、降伏文書に署名した。〔La chute de la Nouvelle-France - Quebec 〕 かつてカナダを「何の値打ちもない何エーカーかの雪」と表現したヴォルテールはこう言った。〔Voltaire and Canada - Quebec 〕「何エーカーかの雪が、母国にとっては非常に高価な値打ちのものになってしまった、その雪は除去されてしまったのだから」〔 しかし、イギリスは、ヌーベルフランスの住民に対してはかなり寛容だった。彼らは国外追放も虐待もされなかった。財産を持って、フランスに戻るのも可能だった。財産所有権も行使できた。イギリス系と同等に毛皮交易を行うこともでき、信教の自由もあった。〔Conquest - The Canadian Encyclopedia 〕この場合むしろイギリスへの同化策よりは、フランス系住民の上に立つ領主と、ローマ・カトリック司教の特権を認め、ケベックをイギリス側の味方に引きこんだ上で、アメリカの13植民地ににらみをきかせる基地とするほうが、イギリスにとっては戦略上有利であった。 しかし、イギリスのこの目論見は失敗した。アメリカの13植民地にとって、イギリスの軍事力はフランスへの抑止力であった。1774年のケベック法で、イギリスはカトリック教徒に譲歩してケベック植民地を拡大し、これがニューイングランドの、西部への進展を阻むことになった。それ以前から、イギリス本国の強圧的な態度に怒りを募らせていた植民地住民は、フランスの脅威が無くなったこの時こそ、晴れて本国に戦いを挑むことができ、それがアメリカ独立への引き金となったのである。〔〔木村和男編 『新版 世界各国史 23』 山川出版社、1999年、117‐118頁。〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「1760年の征服」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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