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1796年5月12日の海戦(1796ねん5がつ12にちのかいせん、Action of 12 May 1796)は、フランス革命戦争中に、イギリス海軍のフリゲート戦隊と、バタヴィア共和国(オランダ)の戦隊のフリゲート艦、および4隻の小型艦との間で行われた小規模な海戦である。その前日にイギリスの北海艦隊が、アダム・ダンカン提督の指揮のもと出港して、テセルに停泊していたオランダ艦隊の沖を航行していた。一方でオランダ戦隊は、前年の1795年8月22日の海戦での敗戦以来、難を避けていたノルウェーの沿岸から戻りつつあるところだった。オランダ戦隊が母国の海岸に近づいて来たため、イギリス戦隊のは攻撃をしかけた。 旗艦の「」艦上のホルステッドは、オランダのフリゲート艦「」を海岸から切り離して戦闘に持ち込み、ちょうど20分で降伏に持ち込んだ。その一方でイギリスの他のフリゲート艦は、オランダ戦隊に迫っていた。オランダ戦隊の他の艦は、イギリス戦隊やダンカンの艦隊から東の方向へと散って行き、それを「」とブリッグ艦「」が追跡した。長い追跡の後、「フェニックス」はカッター「デューク・オブ・ヨーク」を拿捕し、「シルフ」はオランダのブリッグ艦「」を捕まえ、その一方で「ペガサス」は、別のオランダのブリッグ艦である「」と「」を座礁させた。この時点でこの2隻は難破したと思われる。ダンカンのテセル封鎖は、イギリスによる北海封鎖を助け、その1年後に、イギリスはキャンパーダウンの海戦で決定的勝利をものにすることになる。 ==歴史的背景== 1793年2月、フランス第一共和政はイギリスとオランダに宣戦布告して、続行中であったフランス革命戦争に両国を引っ張り込んだ。それから2年もたたない1794年から1795年の冬、オランダ共和国はフランスに侵略され、フランスの騎兵隊が冬の停泊地にいたオランダ海軍を、氷の上を横切って襲い、そっくりそのまま自分のものにした。フランスにより、オランダは属国として再編成され、バタヴィア共和国となり、この国の海軍に、北海で、イギリスの海上輸送に対して軍事行動を取るように命じた〔Woodman, p. 53〕。イギリス政府はすぐにオランダに宣戦布告することはせず、しかしイギリスの港にいるオランダ商船を逮捕する措置は取り、北海上でオランダの軍事行動に対処する新しい艦隊を創設した。これは北海艦隊として知られており、海峡艦隊の任務に適さなくなったとみなされた、老朽艦や小型艦で主に構成されていた。この艦隊の指揮官は66歳の提督アダム・ダンカンだった〔Gardiner, p. 171〕。 1795年8月、オランダ海軍は、イギリスのスカンジナビアへの海上交易に対する軍事行動を取らせるべく、フリゲート戦隊を派遣した。イギリスの交易船には、艦隊への補充物資が多量に積まれており、バルト海を越えてカテガットとスカゲラクの両海峡を通るもので、そのためオランダ戦隊は、中立国で、デンマークの支配下にあるノルウェーの南沖にあるカッテガルトの入口へと航海した〔Gardiner, p. 183〕 。このオランダ戦隊に対抗するため、ダンカンは北海艦隊から、ジェームズ・アルムズ艦長に命じてフリゲート艦による戦隊を派遣し、オランダ戦隊を阻止して破壊するように命令した。8月22日、アルムズ戦隊は、ノルウェーのエイゲローヤ港近くのオランダ戦隊を見つけた〔Clowes, p. 493〕。アルムズはオランダ戦隊に近づき、離岸させようとしたが、この時できたことは、相手のフリゲート艦アリアンテを、自分の旗艦であるで阻止して、わずかな間の交戦で降伏させることのみだった。他のイギリス艦はオランダ艦と砲撃をかわし、アルホに損害を与えたものの、オランダ艦がエイゲローヤに逃げ込むのを阻止できなかった〔。 その年が終わるまでの間、アルホはノルウェーの沖合にとどまった。この海域で行動を取るイギリス海軍が目を光らせているため、大規模な航海ができなかった。1796年5月には、戦略的な状況に変化が訪れ、ダンカンは、今となってはオランダ艦隊に対して積極的に艦隊を動かし、9隻の戦列艦と多くの小型艦に、オランダの主要な艦隊停泊地であるテセル沖の封鎖を命じた〔James, p. 327〕。ダンカンはまた、ノルウェーの港のオランダ戦隊の封鎖が続けられていることの確証も取った。こちらの封鎖は艦長下の28門艦フリゲート「ペガサス」と、艦長下のブリッグ「シルフ」が、沖の海域に派遣されていた。5月の始め、オランダ当局は「アルホ」にテセルへの帰港命令を出し、「アルホ」はから、5月11日に18門艦「エホー」、16門艦「メルクリウス」、そして14門艦「ヒエル」と共に帰国した。 オランダ戦隊がノルウェーを離れたことが、ドネリーの小戦隊によって確認された。ドネリー戦隊はユトランド半島沿岸を南下するオランダ戦隊を追跡したが、5月11日の22時にその影を見失った。ドネリーは推測で正確にオランダ戦隊の方向を言い当て、シルフを戦隊から分離して、艦長のホワイトに、ダンカンの艦隊の方に向かうように指示し、もしドネリーが途中でオランダ戦隊を発見できなかった場合には、艦隊の場所でドネリーと落ち合うようにして、この2隻は別々の方向へと進んだ。「ペガサス」と「シルフ」は5月12日の5時少し前に思いがけなく出会った、その場所はテセル南のダンカン艦隊の近くだったが、オランダ戦隊の位置を突き止めることはできなかった。アルホと僚艦とは、その前夜デンマークとドイツの沿岸に接近して航行しており、偶然に、グレートヤーマスからハンブルクに向かっていたイギリスのカッター「デューク・オブ・ヨーク」を拿捕した。5月12日の夜明け、オランダ戦隊はオランダ沖にいて、テセル停泊地の入口へ向けて南下していた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「1796年5月12日の海戦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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