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1798年6月27日の海戦(1798ねん6がつ27にちのかいせん、Action of 27 June 1798)は地中海のシチリア海峡における、イギリス海軍とフランス海軍のフリゲートによる小規模な海戦である。この戦闘は、ナポレオンのエジプト遠征の初期に行われたもので、トゥーロンからアレクサンドリアへの大規模なフランス商船団の護送という、大がかりなエジプト遠征のその一部であった。フランスのフリゲート「」は、マルタの攻略後に、負傷兵の輸送と略奪した財宝をフランスに持ち帰るという任務で商船団護送艦隊から分遣され、その一方でフランス主力部隊はエジプトへの航海を続けた。イギリス艦「」は、タホ川(タグス川)でイギリス地中海艦隊から分遣されたうちの1隻で、フランス商船団を積極的に捕獲していた、ホレーショ・ネルソン指揮下の艦隊へ増員を輸送する任務についていた。 1798年6月26日16時、「シーホース」の見張り番が「サンサブル」を見つけ、艦長のはすぐさま南へと逃げる「サンサブル」を追跡した。追跡は12時間続き、フットは敵艦に追いついて勝利を収めた、この戦闘では、シーホースよりも力で劣って、過剰に荷物を積んでいた「サンサブル」に多くの死傷者が出た。捕虜の中には、嵐の中のマルタ攻略で負傷した将軍がいて、略奪品の中には、ルイ14世が保持していた、華麗な装飾を施した17世紀の大砲があった。「サンサブル」は拿捕当時は現役の軍艦としての装備を備えていたが、1799年イギリス到着の時点で、輸送艦に格下げされた。この海戦により、フランスのエジプト侵攻の意図を裏付ける決定的な証拠がイギリスにもたらされた。フットは情報伝達のためにネルソンの艦隊を探したが、広範囲に及ぶ捜索にもかかわらず、8月1日のナイルの海戦勃発以前に、フットはネルソンにフランス艦隊の位置を伝えられなかった。 ==歴史的背景== 1798年5月18日、トゥーロンをフランス艦隊が出港したが、艦隊が向かう先は極秘にされていた。この艦隊は22隻の軍艦と120隻の輸送艦で構成されていて、リグリア海を通過する際にジェノヴァ、コルシカそしてチヴィタヴェッキアで兵を増員する予定だった〔James, p. 150〕。この艦隊が目指すのはエジプトだった。エジプトは名目上はオスマン帝国の支配下にあったが、フランスの将軍ナポレオンが、この地をイギリス領インドに対抗する恰好の立脚点と考えたのである〔Adkins, p. 7〕。艦隊は南へと航海を続けたが、イギリス海軍から邪魔されることはなかった。イギリス海軍は、スペイン相手に開戦してから1年近く地中海に現れておらず、ナポレオンの艦隊は6月7日にシチリアを通過して、その2日後にマルタのヴァレッタ港沖に投錨した。島国マルタは、フランスが資金と兵を主に出している宗教騎士団である、エルサレムの聖ヨハネ騎士団の指揮下にあった。ナポレオンは、攻略したマルタが地中海中央部の制覇に不可欠であると信じており、のが艦隊の入港を拒否した時には、ナポレオンは大規模な侵攻で対抗した。騎士団は無抵抗を表明したものの、マルタ人部隊と戦うことになり、まる1日に及ぶ戦闘の末中心部のイムディーナが陥落した〔Cole, p. 8〕。この敗北で騎士団はヴァレッタの砦に退いたが、翌日、フランスでの恩給と地位を保証するから、降伏するようにと説得された〔Cole, p. 10〕。 マルタを獲得したナポレオンは、ここの陸軍と海軍を我が物とし、自分の軍に加えた。またヴァレッタに駐屯兵を置き、マルタの財宝を強奪したが、その財宝とはこの地のカトリック教会のすべての財宝だった〔Gardiner, p. 21〕。この財宝の多くが競売にかけられ、それ以外のものはフランスへ、負傷したディリエ将軍や負傷兵と共に輸送された。6月19日、ナポレオンは軍を分割して、4000人をマルタを抑えておくために残し、それ以外の兵はエジプト遠征の第二行程へと向かった〔Adkins, p. 13〕。この艦隊のうちの1隻が、負傷者や特使、そして負傷者輸送の任務を割り当てられ、その役目についたのは、G・F・J・ブールデ艦長率いる36門艦フリゲートの「サンサブル」だった。しかしこの艦の乗員はその多くが艦から下ろされて、他の艦に転属させられ、マルタのガレー船用の自由奴隷が彼らの仕事をまかされた〔Clowes, p. 510〕。 ナポレオンは、エジプトへの作戦がイギリスに邪魔されるとは考えていなかった。しかしイギリス海軍は、地中海南部におけるフランスの行動に対する報告に対し、ホレーショ・ネルソン少将が指揮する小戦隊をリグリア海に送ることで応じた〔Gardiner, p. 18〕。5月21日にリグリア海に到着したこの戦隊は、激しい嵐でかなりの損傷を受けており、サルデーニャ沖での早急な修理を必要としていた。この嵐はフリゲートをもあちこちに散らしていて、ネルソンには3隻の戦列艦しか残っていなかった。6月7日に10隻の戦列艦と1隻の4等艦を増員してもらったが、偵察用の艦が依然としてなく、そのためフランスの作戦の情報を探るだけの能力を発揮できなかった〔Clowes, p. 354〕。散り散りになったフリゲートは地中海西部を離れ離れに航行していて、イギリス、フランス両艦隊いずれの位置も確認できなかった。タホ川のジョン・ジャーヴィス中将からの補強部隊も、同じ問題に悩まされていた。この部隊もフリゲートが偵察のため広範囲に展開したが、イギリス艦隊も、南西のアレクサンドリアの方向へ疾走して行くフランス艦隊も見つけることができなかった〔Keegan, p. 47〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「1798年6月27日の海戦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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