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1801年のガントームの遠征(1801ねんのガントームのえんせい、Ganteaume's expeditions of 1801)は、フランス革命戦争中の1801年の春に行われた、フランス海軍による大規模な軍事作戦である。ブレストを出港した率いるフランスの戦隊は、エジプトで包囲されているフランス駐屯軍への増員を行おうとしており、3つの異なる作戦を立てたが、地中海東部へたどり着くという目的は達成されなかった。エジプト駐留のフランス陸軍は、1798年に始まったナポレオン・ボナパルトの遠征直後から窮地に立たされ続けていた。この1798年は、ナイルの海戦でフランスの地中海艦隊が壊滅した年でもあり、フランスの地中海への進出は最低限のものとなっていた。その一方で、数に勝るイギリスとその同盟国の艦隊は、ほとんど何の抵抗も受けずに何カ所かのフランス海軍基地を封鎖し、あるいは敗退させた。 地中海に送り込まれたガントームの戦隊は、地中海での英仏の力のバランスを回復させるため、第一執政が直に手を下した試みだった。最初の航海では、この戦隊は2月19日にトゥーロンに戻り、艦隊に残っていた艦に必要な補給を行い、そのひと月後に2度目の航海でトゥーロンを出港したものの、悪天候とイギリスの封鎖の悪条件が重なったため引き返さざるを得なくなった。3度目の航海では実際に地中海東部に到着して、部隊をベンガジに上陸させたものの、エジプトを封鎖していたイギリス艦隊がうまくフランス軍を撤退させてしまい、この計画は何ら収穫のないものとなった。7月22日までには、フランス戦隊はトゥーロンに戻り、この時点で作戦は中止された。ガントームは、エジプトへの上陸作戦が失敗したにもかかわらず、単独のイギリス艦との一連の戦闘で勝利を収めた、その中にはフリゲートの「」や、戦列艦「スウィフトシャー」との交戦があり、この第3の航海での彼の戦隊の艦は、後に7月に行われたに派遣された。結局、イギリスの封鎖を突破しようとして果たせなかったフランスの無能により、エジプトのフランス駐屯部隊はその年遅く降伏するという結果に終わった。 ==歴史的背景== 1798年の5月、軍艦と輸送艦から成る大規模なフランス艦隊が、ナポレオン指揮下の3万5000以上の陸軍兵を乗せて地中海を横切って行った。この陸軍兵の目的はエジプト侵攻であった。このエジプトはその当時、名目上はオスマン帝国の配下にあった〔Gardiner, p. 26〕。マルタ攻略のために一旦艦隊は航行を停止し、その後さらに東へ進んだ艦隊は、イギリス海軍のホレーショ・ネルソン少将の艦隊が地中海に入って、自分たちを追跡していることに気付いた。ネルソンの艦隊をうまくかわしたフランス艦隊は、6月29日にアレクサンドリアに到着し、ただちに上陸して内陸へ向かい、7月21日のピラミッドの戦いでマムルークの指導者たちを破った。陸軍が奥地へと押し入っている間、フランソワ=ポール・ブリュイ・ディガリエ中将率いる艦隊は、アレクサンドリア近くのアブキール湾に投錨していたが、8月1日の午後になってネルソン艦隊から発見された。夜が近づいてくるのにもかかわらず、ネルソンは直ちにフランス艦隊を攻撃し、3日間に及ぶナイルの海戦で、11隻の戦列艦と2隻のフリゲートが破壊または拿捕された。ネルソン艦隊から逃れられたのは2隻の戦列艦と2隻のフリゲートのみで、死傷者は3000人以上を数え、旗艦「オリエント」の艦上で戦死したブリュイもその死傷者の一人だった〔Gardiner, p. 35〕。 フランスへ戻る航路が突如として閉ざされ、ナポレオンはエジプトでの自分の地位を固めて、北のオスマン帝国領シリアへ攻め込んだ。この作戦は当初はいくつかの点で成功したが、イギリスが海上覇権を握っていることで作戦にも影響が出た。沿岸のはしけに乗艦していた攻城梯団が捕らえられ、すべての物資を陸揚げせざるを得ず、海岸近くで行われたフランスの作戦はイギリス艦から猛烈な砲撃を浴びた。特にアッコ包囲戦でイギリスの砲撃は最高潮に達した〔Gardiner, p. 61〕 。1799年11月、アッコで敗北を喫してエジプトを追われたナポレオンは、第二次対仏大同盟相手の戦闘の状況が悪化しつつあり、その責めを負うために、フランスへの帰還を決めた。ナポレオンは、わずかな人数の軍事顧問と共に「」、「」の2隻のフリゲートで撤退することだけが可能だったが、エジプトに残したジャン・バティスト・クレベール指揮下の駐屯隊には、ヨーロッパから支援と増員を送ると約束した。ナポレオンは、フランスに帰り着くことができ、1799年11月9日にブリュメールのクーデターを起こして、第一執政であることを宣言した〔Gardiner, p. 66〕。 ナポレオンが中東やフランスの内政に汲々とする一方で、イギリス海軍は大挙して地中海に戻って行った。1796年、スペインとフランスが第二次サン・イルデフォンソ条約を結んでからは、イギリス艦隊は地中海から撤退していた。しかしネルソンのナイルの海戦での勝利により、フランスの脅威は取り除かれ、その年の後半には大規模な艦隊を展開できるようになった。マルタは包囲され、イオニア諸島はトルコとロシアの連合軍に攻略された。その後この連合軍はエジプトの駐屯兵とも戦ったが、海戦で敗北した〔Gardiner, p. 58〕、フランス部隊をヨーロッパへ戻そうとする交渉は決裂し、1800年3月、クレベールはでオスマン帝国を破るも、その年の6月に暗殺された〔Gardiner, p. 66〕。フランス軍のモラルが落ちるにつれ、エジプトにおける駐屯隊の状況もかなり荒んだものとなっていた。イギリスは1801年にエジプト侵攻を企てたが、この企みがナポレオンのいるフランスに伝わった。ナポレオンはフランス陸軍の再編成をうまく成し遂げ、イタリアにおける敵の進軍を後退させて、これにより大陸での戦争を終わらせていたため、ブレストにいるフランス大西洋艦隊に、エジプトの駐屯兵を増員することを命じた〔Clowes, p. 447〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「1801年のガントームの遠征」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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