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1951年イタリアグランプリ : ミニ英和和英辞書
1951年イタリアグランプリ[1951ねんいたりあぐらんぷり]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ねん, とし]
  1. (n-adv,n) year 2. age 
ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)

1951年イタリアグランプリ : ウィキペディア日本語版
1951年イタリアグランプリ[1951ねんいたりあぐらんぷり]

1951年イタリアグランプリ (XXII GRAN PREMIO D'ITALIA) は、1951年F1世界選手権の第7戦として、1951年9月16日にモンツァ・サーキットで開催された。
==レース概要==
フランス、ドイツでエンリコ・プラーテマセラティをドライブしたトゥーロ・デ・グラッフェンリートが、パウル・ピーチに代わってアルファロメオに復帰、4台体制の一角を占めた。彼はレギュラーのアルファドライバー、ファンジオファリーナボネットと共に参戦する。フェラーリはドイツに引き続いて、アスカリヴィッロレージゴンザレスタルッフィの4台体制で参戦、一方でブラジル人ドライバーのチコ・ランディがフェラーリでプライベート参戦、グランプリデビューを果たす。これらに加え、BRMシムカ・ゴルディーニオスカタルボ・ラーゴがワークスとして参戦した。
フロントローはファンジオ、ファリーナのアルファ勢とアスカリ、ゴンザレスのフェラーリ勢で分けられた。2列目はフェラーリの残り、ヴィッロレージとタルッフィに加え、アルファロメオのフェリーチェ・ボネットが並んだ。BRMのレグ・パーネルもこれに続いたが、潤滑油のトラブルのためスタートすることができなかった。
ポールポジションからスタートしたファンジオがレース序盤をリードしたが、すぐに首位をアスカリに明け渡す。彼は8ラップ目に首位を奪還したが、タイヤ交換のピットインで5位に後退した。ファリーナとデ・グラッフェンリートの早期のリタイアで、フロイラン・ゴンザレスがチームメイトのアスカリに続いて2位となる。ファンジオはフェラーリとの差を詰めようとしたが、エンジントラブルが彼のチャンスをダメにした。唯一残されたアルファドライバー、ファリーナは30ラップ目にボネットの車を引き継ぎ、ファンジオがリタイアしたことで3位に浮上した。彼のペースは速かったものの、燃料漏れのため2度も余分にピットインしなければならなかった。アスカリが自身2度目、そしてフェラーリにとって3度目の勝利を獲得し、イギリスGP勝者のゴンザレスが2位に入った。残るワークスフェラーリのヴィッロレージとタルッフィは4位、5位に入賞しポイントを獲得した。
アスカリはこの勝利でランキング首位のファンジオに2ポイント差に迫った。4ポイント差でゴンザレスがこれに続いた。1レースを残し、ファンジオとアスカリだけがタイトル獲得の可能性を持っていた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「1951年イタリアグランプリ」の詳細全文を読む




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