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1952年イタリアグランプリ (XXIII GRAN PREMIO D'ITALIA) は、1952年9月7日にモンツァ・サーキットで開催されたフォーミュラ2のレース。このレースは1952年のF1世界選手権の最終戦でもあったが、通常適用されるフォーミュラ1のレギュレーションでは無く、1952年と1953年はフォーミュラ2のレギュレーションが適用された。 ==レース概要== フェラーリによって支配された1952年シーズンは、1ヶ月前のドイツグランプリで既にチャンピオンが決定していた。タイトル争いが確定した後のレースではあるが、フェラーリはホームグランプリと言うことで5名のドライバーを投入、前戦オランダのトリオ - チャンピオンのアルベルト・アスカリ、ニーノ・ファリーナ、ルイジ・ヴィッロレージ - に加え、シーズンの様々なポイントでフェラーリをドライブしてきたピエロ・タルッフィとアンドレ・シモンが参戦した。また、多くのプライベーターもフェラーリをドライブし、その中にはエキュリー・エスパドンのフィッシャーとスタック、エキュリー・フランコルシャンのシャルル・ド・トルナコ、ルイ・ロジェ、ピーター・ホワイトヘッドが含まれた。マセラティワークスは今シーズン初、唯一の参戦となり、フェリーチェ・ボネット、フランコ・ロル、フロイラン・ゴンザレスの3名を投入した。この他マセラティ・A6GCMを走らせたのはエスクーデリア・バンディランテスのビアンコ、カントーニ、ランディの3名、一方エンリコ・プラーテは旧型の4CLT/48に自身で改良したエンジンを搭載し、トゥーロ・デ・グラッフェンリートとアルベルト・クレスポ(デビュー戦であった)を走らせた。ゴルディーニは前戦と同じくベーラ、マンヅォン、トランティニアンの3名を起用し、一方プライベーターのジョニー・クレエはシムカ・ゴルディーニを走らせた。HWMはピーター・コリンズとランス・マックリンを起用し、オーストラリア人ドライバーのトニー・ゲイズはプライベーターのHWMを走らせた。コンノートはイギリスグランプリ以来の復帰となり、スターリング・モス(前戦ではERAをドライブしている)、デニス・プーア、ケネス・マッカルパインの3名を起用した。 このレースでは、24台のみ決勝参加が認められ、従ってエントリーした35名の内11名が予選落ちすることとなった。その中にはHWMの全員、フェラーリのプライベーター3名、エンリコ・プラーテの2名が含まれた。アスカリは3戦連続(シーズン5回目)のポールポジションを獲得、チームメイトのヴィッロレージとファリーナ、ゴルディーニのトランティニアンと共にフロントローを形成した。2列目はマセラティのゴンザレス、ワークスフェラーリの残り、タルッフィとシモン、ゴルディーニのロベール・マンヅォンが並び、3列目はコンノート勢トップのスターリング・モス、オスカをドライブするエリー・バイヨル、ワークスゴルディーニ勢最後のベーラ、クーパー-ブリストルのマイク・ホーソーンが並んだ。残るワークスマセラティのボネットとロルは4列目、13位および16位からスタートすることとなった。 レースがスタートすると、フロイラン・ゴンザレスがレースをリード、アスカリは2位となった。ゴンザレスは36ラップに渡ってレースをリードしたが、ピットインするとフェラーリのアスカリとヴィッロレージがパス、1-2位を形成した。アスカリはレースの残りをリード、6連続で勝利を挙げた。ゴンザレスはヴィッロレージを捉え、今シーズン唯一のレースで2位に入った。ヴィッロレージは前戦に引き続いて3位に入る。ファリーナが僅差で4位に入り、フェリーチェ・ボネットは1周遅れで5位、ポイントを獲得した。残るワークスフェラーリのシモンとタルッフィは6位、7位に入った。 タルッフィはポイント圏外だったため、ランキングでニーノ・ファリーナを抜くことはできなかった。フェラーリはチャンピオンがアスカリ、チームメイトのファリーナとタルッフィがこれに続き、トップ3を独占した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「1952年イタリアグランプリ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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