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1952年ドイツグランプリ (XV Großer Preis von Deutschland) は、1952年8月3日にニュルブルクリンクで開催されたフォーミュラ2のレース。このレースは1952年のF1世界選手権の第6戦でもあったが、通常適用されるフォーミュラ1のレギュレーションでは無く、1952年と1953年はフォーミュラ2のレギュレーションが適用された。 == レース概要 == マセラティのファクトリーチームは新車、A6GCMをフェリーチェ・ボネットに託した。その他、エスクーデリア・バンディランテスのジノ・ビアンコとアイテル・カントーニもA6CGMをドライブした。フェラーリのドライバーはアルベルト・アスカリ、ニーノ・ファリーナ、ピエロ・タルッフィのトリオであった。プライベイターではエキュリー・エスパドンのルディ・フィッシャーとルドルフ・シェーラー、エキュリー・フランコルシャンのロジェ・ローラン、スクーデリア・マルゾットのピエロ・カリーニがフェラーリをドライブした。肩の負傷が回復したジャン・ベーラはプリンス・ビラに代わってゴルディーニで復帰し、ロベール・マンヅォン、モーリス・トランティニアンと共に参加した。HWMは3台を投入、レギュラードライバーのピーター・コリンズがベルギー人ドライバーペアのポール・フレール、ジョニー・クレエと共に参加し、オーストラリア人ドライバーのトニー・ゲイズはプライベイターとしてHWMをドライブした。ビル・アストンはアストン・バターワースで参加し、残るグリッドはドイツ人プライベイターで埋められた(ヴェリタス、AFM、BMW)。 フェラーリが予選で最速タイムを記録し、アスカリとファリーナがフロントロー、ゴルディーニのトランティニアンとマンヅォンが2列目に並んだ。もう1人のフェラーリワークスドライバー、タルッフィはセカンドローに並び、エキュリー・エスパドンのプライベイターフェラーリ、フィッシャーおよびヴェリタスのパウル・ピーチが続いた。ボネットのワークスマセラティは3列目、ゴルディーニのジャン・ベーラ、地元ドライバーのヴェリタスをドライブするハンス・クレンク、AFMをドライブするヴィリー・ヒークスと並んだ。 レースは番狂わせもなく、順当に展開した。アスカリがファリーナを従え、最初の16ラップを走行した。残る2ラップ、彼は給油のためピットインし、10秒後にファリーナが現れた。次のラップでアスカリは素早く作業を終え、ピットからちょうど1マイルの位置にファリーナを捉え、数秒後退屈なレースに勝利した。ピエロ・タルッフィはチームメイトに次いで3位を走行したが、ゴール直前にサスペンションとブレーキに問題を生じ、ルディ・フィッシャーに抜かれ4位となった。フィッシャーが表彰台、タルッフィが4位になったことでフェラーリの1-2-3-4が達成された。マンヅォンはレース前半のほとんどをタルッフィとフィッシャーの間、4位で走行したが、ホイールが脱落しリタイアを余儀なくされた。これによってチームメイトのベーラは5位に入賞、ポイントを得ることができた。ベーラのゴルディーニに続いて、ロジェ・ローランが6位に入った。マセラティワークスのフェリーチェ・ボネットは第1ラップでスピンした際、押しがけを行ったことで失格となった。 アスカリは4連勝を達成し、4回連続でファステストラップを記録、シーズンで獲得できる最大限の36ポイントを得て、4度のベストな結果を達成した唯一のドライバーであった。結果として、彼は2戦を残してタイトルを獲得した初のドライバーとなった。タイトルが確定した8月3日は、ジム・クラークがシーズンに8月1日で更新するまで、最も早くタイトルを確定した日程であった。アスカリのチームメイト、タルッフィとファリーナはランキング2位、3位となり、フィッシャーが2度目の表彰台を得たことでランキング4位に浮上した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「1952年ドイツグランプリ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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