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1954年兵庫県知事選挙(せんきゅうひゃくごじゅうよねんひょうごけんちじせんきょ)は、1954年(昭和29年)12月12日に投開票が行われた第36代(公選制導入後は3回目)の兵庫県知事を選出するための選挙である。 == 概要 == 1947年(昭和22年)に都道府県知事の公選制が導入されてから2回の兵庫県知事選挙はいずれも統一地方選挙の一環として行われ、2回とも官選第32代知事で保守系の岸田幸雄が革新系の候補者との一騎打ちを制して当選して来た。ところが、岸田の招きで兵庫県庁に入庁し総務部長を経て副知事を務めていた吉川覚が1954年(昭和29年)4月に突如として岸田に叛旗を翻し、県庁内で組織的な裏金作りが行われているとする告発状を神戸地検に提出する〔佐賀朝「講和後の社会状況と市財政再建 」(Web版 図説 尼崎の歴史)〕。この動きに対して岸田が吉川の告発を事実無根として副知事を罷免したことから、県議会の与党会派である公正会を二分する政争へと発展した。 吉川は連日にわたって記者会見を開き、岸田は監督責任を取って自発的に知事を辞任すべきだと主張したことから「県政の爆弾児」の異名を取った〔『神戸新聞』1954年8月5日付8面「吉川さん告発取消しの弁」〕。ところが、後に岸田が公選2期目の任期満了後に自らを後継の知事に指名するものだとの期待に反して県の財政難を受けた組織再編に伴うポスト削減を理由に副知事を2名から1名に減員したい旨を打診されたことを逆恨みしての告発であったと暴露され、告発状を取り下げる。神戸地検の捜査では県庁内の100名余りが取り調べを受け、吉川から名指しで裏金作りの首謀者として非難されていた公房長(現在の知事公室長に相当する役職)は任意で事情聴取に応じた後に「一身上の都合」を理由に辞任、起訴猶予処分となり捜査は終結した〔議会史4輯2, pp74-77〕。 吉川の告発は空振りに終わり、一気に信頼を失ったとみるや岸田は半年弱の任期を残して出直し選挙に打って出る決意を固める。しかし、国政では第5次吉田内閣の造船疑獄に端を発する自由党の内紛が表面化しており、岸田の3選出馬に対しては保守陣営の間でも賛否が分かれた。特に官選第24代兵庫県知事を務めた湯沢三千男は岸田の3選出馬はリスクが大きいとして反対の立場を表明していたことから、岸田が出馬を見送って退任する場合は湯沢か官選第28代知事の成田一郎を擁立することが検討された〔。一方、過去2回の選挙で苦杯を舐めていた革新陣営では出直し選挙が執行された場合、知名度の高さから尼崎市の阪本勝市長を社会党推薦候補として擁立する方針が決定される。阪本は当初、湯沢との個人的な親交から出馬に慎重な姿勢であった。しかし、最終的に岸田と湯沢が「革新県政阻止」の認識で一致して湯沢が岸田の3選出馬を容認する姿勢に転じたことから出馬を決断し、現職の岸田に吉川と阪本が挑む選挙戦の構図が確定した〔。 岸田は11月5日付で知事を辞任し、出直し選挙の投票日は12月12日に設定された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「1954年兵庫県知事選挙」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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