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1959年のロードレース世界選手権は、FIMロードレース世界選手権の第11回大会である。5月にクレルモン=フェランで開催されたフランスGPで開幕し、モンツァの最終戦イタリアGPまで、全8戦で争われた。 == シーズン概要 == 以来途絶えていたフランスGPが新たに造られたクレルモン=フェラン・サーキットに舞台を移して復活し、この年の世界選手権は全8戦となった。ただし、8戦全ての大会で開催されたクラスは無い。 4クラスのタイトルをMVアグスタに乗る2人のライダーだけで独占した。350ccと500ccクラスに至っては、シーズンを通してレースに優勝したのはジョン・サーティースただ一人だった。ノートンはワークス活動を撤退した後もプライベーター用の市販マシンの開発を続けていたが、単気筒のマンクスではMVアグスタの4気筒には太刀打ちできなかった〔『THE GRAND PRIX MOTORCYCLE』(p.48)〕。MVアグスタ以外で唯一500ccクラスへのワークス参戦を続けていたBMWは、結局1度も勝利することなくこの年を最後にグランプリを去った。一方、125ccと250ccクラスではカルロ・ウビアリとタルクィニオ・プロヴィーニというMVアグスタの2人がしのぎを削り、結果は両クラスともウビアリが制したが個性の強い2人の衝突は避けられず、シーズン終了後にはプロヴィーニがMVアグスタを離れてモト・モリーニに移籍することになった〔『二輪グランプリ60年史』(p.50 - p.51)〕。 前年、印象的な走りを見せたMZの2ストロークには東ドイツ以外のライダーたちも大きな関心を示し、前年からのレギュラーであるホルスト・フュグナーとエルンスト・デグナーに加えてゲイリー・ホッキングやルイジ・タベリといった実力のあるライダーがシーズン中にMZに乗り換え、度々上位に食い込んだ。中でもホッキングはMZを得ると同時に連勝し、それを見たMVアグスタはホッキングと翌年からの契約を結んでいる〔『The 500cc World Champion』(p.45)〕〔。 後のグランプリの歴史にとって重要なこの年の出来事が、日本のホンダのマン島初挑戦(125ccクラス)である。日本国内では浅間火山レースや富士登山レースのようなダートコースでのレースしかなく舗装路でのレース経験がほとんどないホンダだったが、ヨーロッパでも類を見ない125cc2気筒DOHC4バルブのエンジンを積んだマシン(船便で運んだマシンの2バルブエンジンのヘッドを、レース直前に手荷物で持ち込んだ4バルブヘッドに急遽交換したものだった)で社内ライダーの谷口尚己が6位入賞し、初グランプリで1ポイントを獲得した。レースの1ヵ月前から現地に乗り込んで練習を重ねた谷口を含む4人の日本人ライダーは全員完走してホンダはチーム賞を獲得し、ヨーロッパのメディアはそのエンジンを「まるで腕時計のように精巧で、ヨーロッパのメーカーのコピーではない独創的な設計だ」と賞賛した〔『Honda Motorcycle Racing Legend vol.3』(2009年、八重洲出版)ISBN 978-4-86144-143-1(p.24 - p.27)〕〔大久保力『百年のマン島 - TTレースと日本人』(2008年、三栄書房)ISBN 978-4-7796-0407-2(p.1 - p.10)〕。この年ホンダが走ったのはマン島の1戦のみだったが、ホンダのマシンに可能性を感じた一部のプライベーターは早くも翌シーズンのホンダの動向を気にし始めていた〔『二輪グランプリ60年史』(p.53)〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「1959年のロードレース世界選手権」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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