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1962年のロードレース世界選手権は、FIMロードレース世界選手権の第14回大会である。5月にモンジュイック・サーキットで開催されたスペインGPで開幕し、ブエノスアイレスの最終戦アルゼンチンGPまで、全11戦で争われた。 == シーズン概要 == 50ccクラスが新たに加わり、この年からロードレース世界選手権は全5クラスで争われることになった。50ccクラスは元々ヨーロッパ選手権として開催されており、西ドイツやイタリア、スペインといった国々のモペッドメーカーの活躍で人気のあったクラスだった〔大久保力『百年のマン島』(2008年、三栄書房)ISBN 978-4-7796-0407-2(p.384 - p.385)〕。また、この年のグランプリは前年と同じ全11戦で争われたがスウェーデンGPはカレンダーから外され、代わりにフィンランドGPが新たに加わった。ただし11戦全てのグランプリでレースが行われたのは125ccクラスのみである。 前年、圧倒的な強さで小排気量クラスを制したホンダはこの年から350ccクラスと50ccクラスにもチャレンジを開始し、350ccクラスでは参戦初年度にして125ccや250ccクラスと同様の成功を収めることに成功した。一方、新設された50ccクラスではホンダに加えて西ドイツのモペッドメーカーであるクライドラー、そして日本のスズキという3メーカーの争いとなり、ホンダの4ストロークはクライドラーやスズキの2ストロークの後塵を拝することになった。前年、前々年と他のマシンと一緒に走るのが精一杯だったスズキは前年に東ドイツから西ドイツへの亡命を果たした元MZのエースライダー、エルンスト・デグナーと契約し、デグナーによってもたらされたノウハウによってスズキのマシンはシーズンオフの間に一気に一線級の速さを獲得したのである〔『二輪グランプリ60年史』(p.65)〕。また、クライドラーのマシンは50ccという小さなエンジンの出力を無駄なく使い切るために手と足を使った12段変速という他に類を見ないギアボックスを持っていた〔『百年のマン島』(p.389)〕。あくまでも4ストロークに拘るホンダは軽量・高出力の2ストローク勢に対抗するためにシーズン中には2気筒の50ccエンジンの開発に着手し、これ以降より高回転・高出力を目指して多気筒化とギアボックスの多段化への道を進むことになる〔『Honda Motorcycle Racing Legend vol.3』(2009年、八重洲出版)ISBN 978-4-86144-143-1(p.50 - p.53)〕。なお、前年グランプリデビューを飾ったヤマハは、日本国内での新型モデルの商業的な失敗を理由にこの年のグランプリ参戦を見合わせている〔『YAMAHA RACING GLORY』(2009年、八重洲出版)ISBN 978-4-86144-133-2(p.42)〕。 ライダーにとってはこの年は陰惨なシーズンでもあった。幸先の良いスタートを切った高橋国光はマン島の125ccクラスでクラッシュし、治療に1年を要する程の重傷を負った〔『百年のマン島』(p.397)〕。そしてその後の350ccクラスのレースでは、前年の125ccクラスチャンピオンのトム・フィリスが事故で死亡した。前年の500ccクラスチャンピオンでフィリスの友人でもあったゲイリー・ホッキングはフィリスの死に強いショックを受けてマン島の後に2輪レースから引退したが、この年の12月に南アフリカのダーバンで4輪のF1マシンでの練習走行中に事故死した〔『The 500cc World Champion』(p.46)〕。ホンダのジム・レッドマンもホッキングと同様にチームメイトだったフィリスの事故のショックから引退を考えたが、ボブ・マッキンタイヤからの強い慰留を受けて思い留まった。しかしそのマッキンタイヤ自身は250ccクラスでランキング2位につけながら、8月にイギリスで行われたノンタイトルレースでのアクシデントで命を落とした〔『百年のマン島』(p.399)〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「1962年のロードレース世界選手権」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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