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1972年のロードレース世界選手権は、FIMロードレース世界選手権の第24回大会である。4月にドイツのニュルブルクリンクで開幕し、モンジュイック・サーキットで開催された最終戦スペインGPまで、全13戦で争われた。 == シーズン概要 == フランスGPとユーゴスラビアGPがカレンダーに復帰した一方、の世界選手権シリーズのスタート以来その一戦として組み込まれていたアルスターGPが北アイルランド紛争の影響によってこの年からカレンダーから外され、この年の世界選手権は全13戦となっている。イベントとしてのアルスターGPはヨーロッパ有数の公道レースのひとつとしてその後も続けられているが、世界選手権に復帰することは二度となかった。 1960年代の終わりにグランプリから撤退した日本メーカーの中で最初にワークス活動を再開したのは、すでに市販マシンで中排気量クラスを支配しつつあったヤマハだった。この年、ヤマハは250ccと350ccの市販マシンである空冷のTR/TDシリーズをパーツの共通化を図ったTR3/TD3へと進化させてこれまで同様に多くのプライベーターたちに歓迎されていたが〔『浅間から世界GPへの道』(2008年、八重洲出版)ISBN 978-4-86144-115-8(p.60)〕、それとは別に両クラスに事実上のワークスマシンである水冷の新型マシンを投入してロドニー・ゴウルドやケント・アンダーソンといった契約ライダーを乗せ、同時に日本選手権で活躍していた金谷秀夫をグランプリに参戦させたのである〔『YAMAHA RACING GLORY Since 1955』(2009年、八重洲出版)ISBN 978-4-86144-133-2(p.114)〕〔『サーキットの軌跡 世界ロードレースGPの歴史』(p.119 - p.121)〕。翌年には、この新型マシンをベースとした市販マシンである水冷のTZシリーズがリリースされることになる。またその一方で、ヤマハは第二次ワークス活動の本命ともいえる500ccクラス参戦の準備を進めており、この年の9月には水冷4気筒のYZR500のテストを開始していた〔『THE GRAND PRIX MOTORCYCLE』(p.86)〕。 活動を再開したヤマハはしかし、この年の第5戦として開催されたマン島TTレースにはチームとしては出場していない。グランプリの中でも最も伝統的なイベントであるマン島TTだったが、古く荒れた1周60kmのマウンテン・コースは最新のサーキットに慣れた人々には危険なコースと映っており、1970年代になる頃にはマン島TTを敬遠するライダーが増え始めていた〔『サーキットの軌跡 世界ロードレースGPの歴史』(p.117 - p.118)〕。には250ccクラスのランキングトップだったスペイン人のサンチャゴ・ヘレロの事故死によってスペインでは自国の選手がマン島TTに出場することを禁止する決定を下しており、この1972年には125ccクラスでタイトル争いをしていたジルベルト・パロッティがトップを走りながら高速コーナーでクラッシュして死亡した〔『二輪グランプリ60年史』(p.105)〕。パロッティの友人でもあったジャコモ・アゴスチーニは「コースが改修されない限りTTレースには出場しない」と語り、その言葉通りアゴスチーニのマン島出場はこの年が最後になった〔。そしてこれ以降トップライダーやワークスチームがマン島を敬遠する傾向にますます拍車がかかり、ついには5年後のからマン島TTはロードレース世界選手権のカレンダーから消えることになる〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「1972年のロードレース世界選手権」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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