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1973年のル・マン24時間レース(''24 Heures du Mans 1973'' )は、41回目〔『ルマン 伝統と日本チームの戦い』p.223「資料1」。〕のル・マン24時間レース及び世界メーカー選手権第8戦であり、1973年6月9日から6月10日にかけてフランスのサルト・サーキットで行われた。 == 概要 == 国際自動車連盟は、スポーツカーシリーズは6時間または1000kmのレースにかけられるものとしてル・マン24時間レースを世界選手権から外す方向を打ち出したがフランス西部自動車クラブは屈せず伝統を守り抜く決意を示し、結果として1973年のル・マン24時間レースにも世界選手権がかけられた〔『ルマン 伝統と日本チームの戦い』pp.27-154「ルマン24時間レースの歴史」。〕。 設立からわずか1年余のシグマ・オートモーティブ(現サード)がシグマ・MC73を作成して26号車として参戦した。ル・マン24時間レースに日本車が参加したのはこれが初めてである〔〔日本製エンジンとしては1970年にリーバイス・レーシングのシェブロンB16マツダ48号車が搭載したマツダ・10A型エンジンの例がある。〕。ちょうどメーカーがレースに興味を失っていた頃で、国内でレース活動を続けるのですら困難な時代であり、オーナー加藤眞の情熱によるプライベート参戦であった〔『ルマン 伝統と日本チームの戦い』pp.155-220「ルマン24時間レース挑戦 日本チーム」。〕。日本からの初参戦ということで主催者から大歓迎を受け、サーキットには日の丸が掲げられた。参加国の駐仏大使を招待する恒例により日本の駐仏大使もル・マンに初めて招待され、加藤眞は駐仏大使に感謝されたという〔〔時期から見るに中山賀博。〕。シグマはトヨタとの関係が深かったので当初トヨタエンジンを前提でエントリーしたが突然入手できなくなった〔『ル・マン 偉大なる草レースの挑戦者たち』pp.5-28。〕。1972年のル・マン24時間レースに鈴木鈑金がエントリーしながら参加していなかったため〔、ここで取り消すと日本人の信用がなくなり永久に日本チームが参加できなくなると考え〔、加藤眞は迷った末にマツダに目をつけ、衆議院議員だった石原慎太郎に間に入ってもらい、当時の社長松田耕平を紹介してもらい〔、マツダはマツダオート東京チューン〔の12A型〔ワークスエンジン2基を50万円で貸与する旨約束〔、正月返上でル・マン仕様を作成、筑波サーキットを10周させただけでフランスに送った〔。富士グランチャンピオンレースに参加しながらだったので殺人的な日程であった〔。シグマのエースだった高橋晴邦はトヨタの契約ドライバーだったのでマツダのエンジンを積んだ車両には乗れず〔、ドライバーは生沢徹〔〔、鮒子田寛〔〔、フランス人のフォーミュラ2〔ドライバーパトリック・ダル・ボ(''Patrick Dal Bo'' )〔〔〔となった〔。ドライバー契約金を含めた全ての経費は1000万円、メインスポンサーとしてパンアメリカン航空がつき、さらに現地入りしてからソニーが500万円を提供した〔。自動車製作費は200万円、遠征メンバーは3人、現地採用分を含めても総勢10名に満たない小さなチームだった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「1973年のル・マン24時間レース」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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