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1979-1980シーズンのNBA : ミニ英和和英辞書
1979-1980シーズンのNBA[びー]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

1979-1980シーズンのNBA : ウィキペディア日本語版
1979-1980シーズンのNBA[びー]

1979-1980シーズンのNBAは、NBAの34回目のシーズンである。
== バードとマジック ==
1970年代はNBAにとって暗黒の時代だった。ABAとの生存競争によりリーグ全体が疲弊し、各球団は選手のサラリーの急激な上昇で財政難に苦しみ、観客席には空席が目立つようになり、テレビ視聴率も下がる一方。さらに薬物やアルコールによるスキャンダルが続発し、リーグのイメージも極端に悪化していた。NBAはスリーポイントシュートの導入など、事態打開のために様々な手を打つが、NBAに真に必要だったのはリーグを牽引する救世主、スーパースターの登場だった。
一人は1956年、インディアナ州のウエストバーデンで生まれた。一見何処にでもいる田舎の純朴な白人少年に見える彼は、しかし一度コートに立てば並外れたバスケットセンスを発揮する選手で、大学進学を迎える頃には有名大学からスカウトを受けるほどの名選手になっていた。彼は闘将として知られるボビー・ナイトが指導するインディアナ大学に進学するが、ナイトの苛烈な指導や学校の雰囲気に馴染めず、すぐに退学し、一度はバスケットの道を諦めた。しかしその後再び大学に戻る決意をし、インディアナ州立大学に進学。当時カレッジバスケ界では決して有名校とは言えなかった同大学チームを、彼はカレッジバスケの最高峰であるNCAAトーナメント進出を果たすまでに押し上げる。彼の名は当然NBAにも轟き、彼が大学を卒業する1979年のNBAドラフトの目玉となるはずだった。しかし彼の名前は意外な年のドラフトの、意外な順位で指名されることとなる。1978年のNBAドラフト全体6位、それが彼の指名順位だった。彼を是が非でも欲するボストン・セルティックスレッド・アワーバックGMは一計を案じ、彼がインディアナ大学中退後、1年間短期大学に通っていたことを目に付け、インディアナ州立大学での3年間を合わせて大学プレイ資格4年間を全うしたとして、彼を強引に指名したのである。本来なら翌年の、もっと上位で指名されるはずの彼は、1978年の全体6位指名で東の名門、当時低迷に喘いでいたセルティックスに入団が決まった。しかし彼はもう1年大学でプレイするため、セルティックスの入団は1年を待たなければならない。しかしこの1年が彼、ラリー・バードの後に続く新たな物語を紡ぎだすこととなる。
もう一人はバードに3年遅れること1959年、ミシガン州の州都ランシングで生まれた。陽気な黒人少年だった彼、アーヴィン・ジョンソン・ジュニアは優秀なバスケット選手という点以外は、性格やプレイスタイル、あらゆる点でバードとは対照的だった。見栄えのする彼の鮮やかなプレイは人々を魅了するようなり、彼が2年生のときにはある試合で36得点18リバウンド16アシスト10スティールのクアドルプル・ダブルを記録。その時取材に訪れていた地元記者から"マジック"というニックネームが与えられた。高校4年生だった彼が高校のチームを州チャンピオンに導いた同じ年、NBAで一つのトレードが行われた。ロサンゼルス・レイカーズゲイル・グッドリッチニューオーリンズ・ジャズにトレードに出したのである。すでにベテランの域に達し、成績も落ち始めていたグッドリッチのトレードは、当時それほど注目されたものではなかったが、この時レイカーズが対価として得たものが、将来非常に大きな意味を持ってくる。ジョンソンは高校卒業後ミシガン州立大学に進学。当時低迷していた同校を彼は前季の12勝15敗から25勝5敗と大躍進させた。彼の名はアーヴィン"マジック"ジョンソン、マジック・ジョンソンとして全米に知れ渡るようになった。
それまで殆ど接点が無かったバードとマジックを結びつけたのが、1979年のNCAAトーナメントである。バードが加わって4年目のインディアナ州立大学はシーズンを33戦全勝で終えるほどの勢いを誇り、2年目のマジックが在籍するミシガン州立大学もトーナメントの優勝候補となっていた。メディアは当然のように両チームのエースに目を付け、選手としても一人の青年としても見事に対照的な2人を集中的に取り上げた。結果2人は試合では一度も対戦したことがないにも関わらず、ライバルとして全米のバスケットファンに認知されることとなり、決勝トーナメントは異常なほどの注目を集めた。そしてあたかも筋書き通りであるかのように、2人はトーナメント決勝で相対したのである。試合は75-64でミシガン州立大が勝利し、バード対マジック最初の対決はマジックに軍配が挙がった。全米に向けて放送されたテレビ中継の視聴率は、NCAA史上最高の38%を記録し、現在も破られていない。
もしバードがアーリーエントリーし、1978年のドラフト指名でそのままセルティックスに入団していたならば、この決勝での対決はなく、バード対マジックのライバル関係も成立し得なかった。その意味でNBAは非常に運が良く、また何よりNCAAトーナメント決勝という当時のNBAファイナルを遥かに凌ぐアメリカバスケ界最高の舞台で、バード対マジックを全米に向けてアピール出来たことが大きかった。バード対マジックをNBAにそのまま持ち込むことにより、彼らが全米から集めた注目を、そのままNBAに引き込むことが出来たからである。しかしそれには1979年のNBAドラフトにアーリーエントリーしたマジック・ジョンソンが、どのチームに入団するかが重要だった。すでにバードはセルティックスの入団が決まっており、マジックが東の名門セルティックスのライバルに相応しいチームに入団することが、NBAにとっては最上のシナリオだった。
そしてマジックを全体1位指名したのがロサンゼルス・レイカーズだった。西の名門でセルティックスの永遠のライバルであるレイカーズへの入団は、NBAにとっては他にない最高の選択だった。前季の成績が47勝35敗、リーグ6位タイの成績だったレイカーズが全体1位指名を得られたのは、遡ること3年前、1976年のガイル・グッドリッチのトレードが関係してくる。この時、ジャズから対価として得たのが、将来のドラフト指名権だった。前季26勝56敗で見事にリーグ最下位となったジャズが獲得したドラフト1位指名権を、レイカーズがまんまと手中に収め、マジックを指名したのである。なお、レイカーズはこのシーズン中にもクリーブランド・キャバリアーズとのトレードでドン・フォードとの交換で、1982年の1巡目ドラフト指名権を獲得している。これが後に一世を風靡する"ショータイム・バスケット"の完成に繋がる。
あらゆる幸運が重なって、バード対マジックという1980年代最高のライバル関係は確立された。2人のNBA入り以後、リーグ全体はこの2人が支配するようになり、80年代のファイナルはバードのセルティックスと、マジックのレイカーズのいずれかが必ず出場し、ファイナルでのセルティックス対レイカーズの直接対決は、80年代のNBA最高のカードとなった。NBAに入ってさらに加熱した両者のライバル関係は、当時霧散していたNBAへの注目を一気に引き戻すことに成功し、さらにどん底に沈んでいたNBA人気をかつてないほどに高めることとなる。
NBAにとってバードとマジックは、まさに救世主だった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「1979-1980シーズンのNBA」の詳細全文を読む




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