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1979年のパシフィック・リーグプレーオフは、前期優勝の西本幸雄監督率いる近鉄バファローズと後期優勝の梶本隆夫監督率いる阪急ブレーブスとの対決となった。この年は前期が優勝近鉄・2位阪急、後期が優勝阪急・2位近鉄であり、まさに雌雄を決する天王山となったが、近鉄が3連勝で球団創立30年目の初優勝を果たした。阪急と同様、西本監督が弱小球団を一から育て上げて勝ち取った優勝だった。梶本は西本が阪急監督時代に選手を務めており、「師弟対決」でもあった。 近鉄は当時、本拠地の藤井寺球場にナイター設備がなく、日本生命球場も収容人数が約20,500人と両球場とも施設上の問題があった事から、南海の専用球場であった大阪球場を間借りして開催した。〔ただし1975年にプレーオフに進出した時は藤井寺球場で開催し、もしリーグ優勝した場合は日本シリーズも藤井寺で開催予定だった。なお、近鉄は翌1980年もリーグ優勝を果たしたが、同年も日本シリーズとその前のプレーオフは共に大阪球場で開催した。〕 == 試合結果 == === 第1戦 === 10月13日 大阪 観衆25000人 (急)●山田(1敗)-中沢、笹本 (近)○井本(1勝)、S山口(1S)-梨田 本塁打 (近)小川1号ソロ(7回山田)、栗橋1号ソロ(8回山田) 近鉄は4回、永尾泰憲の三塁打と梨田昌崇の犠牲フライで2点先制。5回チャーリー・マニエルのタイムリー、7回小川亨の本塁打で着実に加点。近鉄先発の井本隆は7回まで無失点の好投。8回1点を失い、なおも1死満塁のピンチを迎えるが、ここで井本をリリーフした山口哲治が島谷金二を併殺打に仕留めピンチをしのぎ、近鉄が逃げ切った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「1979年のパシフィック・リーグプレーオフ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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