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1979年のル・マン24時間レース(''24 Heures du Mans 1979'' )は、47回目〔『ルマン 伝統と日本チームの戦い』p.223「資料1」。〕のル・マン24時間レースとして、1979年6月9日から6月10日にかけてフランス、ル・マンのサルト・サーキットで行われた。 == 概要 == コースが変更され、13.640km/周から13.626km/周となった〔〔『ル・マン 偉大なる草レースの挑戦者たち』pp.298-303。〕。 1978年のル・マン24時間レースで優勝したルノーは目的を達成し、予定通りフォーミュラ1に集中するためル・マン24時間レースには参加しなくなり、ポルシェに対抗できる車両は皆無となった〔『ルマン 伝統と日本チームの戦い』pp.27-154「ルマン24時間レースの歴史」。〕。 ポルシェのワークス、マルティニは去年とあまり変わらないポルシェ・936を2台持ち込み〔、その他プライベーターのポルシェ・935が多数出場〔し、ワンメイクレースのようになった〔。 日本からはマツダスピードと童夢が出場し、これは初めての複数日本チーム参加となった〔。シグマ・オートモーティブ(現サード)が1973年から1975年まで参加して以来の日本チーム参加でもあった〔。 マツダオート東京は生沢徹/寺田陽次郎/クロード・ブシェ組が、シグマ時代に使用された10A型エンジンより一回り大きい13B型エンジンを搭載したマツダ・RX-7のシルエットフォーミュラであるマツダ・RX-7・252iを持ち込んだ〔『ル・マン 偉大なる草レースの挑戦者たち』pp.5-28「序章 - ハイ・ムーン・テンプル」。〕。当時シルエットフォーミュラはグループ5カテゴリーに属していたが大橋孝至は参加条件が有利になると判断しIMSA仕様に仕立て直した〔。チームはドライバーを含めても10人程の小世帯で、パリでインスタントラーメンを多量に購入してル・マンに入った〔。 童夢は童夢-零の反響が大きく、プラモデルが爆発的に売れた〔。来年型の自動車製作を懇願する玩具メーカーに対し林みのるはル・マン24時間レースへの参戦を宣言、日本人がよくやるステップアップ型の方法を採らず、最初から行けるところまで行くつもりで全社員26人を6ヶ月間もレーシングカーの設計製作に動員した〔。シャシ設計は加藤眞の元でシグマのレーシングカーを設計していた小野昌朗、エンジンは当時フォーミュラ1で大活躍していたフォード・コスワース・DFVエンジンを使用し、童夢-零RLフォードを完成した〔。完成後ただちに富士スピードウェイで初走行、谷田部の日本自動車研究所で高速テストを経た〔。現場のレース運営はイギリス人のキース・グリーンに任せることとし、その元へ車両を送った〔。シルバーストン6時間レースではトランスミッションにトラブルを起こしながら12位完走を果たし高い能力を証明した〔。ル・マンには2台をエントリー、ドライバーも最初から日本人を使わず4人全員ヨーロッパ人とした〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「1979年のル・マン24時間レース」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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