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1982年のJSL(第18回日本サッカーリーグ1部および第11回日本サッカーリーグ2部)は、1部・2部とも1982年4月4日から10月31日まで行われた。 優勝は、1部が三菱重工業サッカー部で2部がヤマハ発動機サッカー部であった。 優勝争いは第17節終了時点で古河電工、三菱重工が勝ち点21、得失点差+7で並んだが、最終節で古河が優勝のプレッシャーから本田技研に1-2で敗れたのに対し、三菱は日立製作所に5-1で大勝し4年ぶり4度目のリーグ優勝を成し遂げた。 == JSL1部 == このシーズンは序盤から混戦状態のままシーズンが進み〔、最終節を前にして勝ち点21の三菱重工、古河電工、勝ち点20のヤンマー、フジタ、勝ち点19の日立の5チームに優勝の可能性が残されていた〔。最終節は10月30日と31日に開催され、30日に試合があった前年チャンピオンのフジタは、日産に敗れて最初に脱落した〔。31日13時に始まった三菱対日立の試合では、三菱が5-1で勝った〔。三菱の勝利により、14時キックオフのヤンマーは試合中に優勝の可能性が消えた〔。同じく14時開始の本田技研対古河の試合は無得点のまま前半を折り返した〔。三菱が大勝したことにより古河は4-0以上での勝利が必要になったが、それが焦りへと繋がり、後半5分に菅野将晃が先制ゴールを決めたものの、本田に逆転を許して1-2で敗れた〔。三菱が4年ぶり4度目の優勝を果たし、ヤンマーが2位、古河が3位となった〔。 2位となったヤンマーは大ベテランの釜本邦茂が第8節マツダ戦でアキレス腱を切り、残り試合に出場できなかった〔。釜本にとっては、この年の第7節日立戦で記録した通算202ゴール目が、JSLにおける自身最後のゴールになった〔。 このシーズンより従来リーグ側が担っていた試合運営を各ホームチームに任せる「自主運営」が始まった〔。これまでは各チームが均等に拠出したリーグ分担金を試合の運営経費に使い、集まった入場料収入は観客数の上下に関係なく各チーム均等に分配していた〔。この年からは各ホームチームが経費を負担するが、営業努力によって観客を集めれば、その分だけ収益も上がる仕組みになった〔〔。この自主運営の始まりこそが将来のプロリーグ化に向けた第一歩だったともいわれている〔平塚晶人『空っぽのスタジアムからの挑戦』小学館、2002、156-157頁。〕〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「1982年のJSL」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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