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1982年の日本シリーズ(1982ねんのにっぽんシリーズ、1982ねんのにほんシリーズ)は、1982年10月23日から10月30日まで行われたセ・リーグ優勝チームの中日ドラゴンズとパ・リーグ優勝チームの西武ライオンズによる第33回プロ野球日本選手権シリーズである。 == 概要 == 広岡達朗監督率いる西武ライオンズと近藤貞雄監督率いる中日ドラゴンズの対決は、西武が埼玉県所沢市への本拠地移転後では初、西鉄時代を含めると24年ぶり4度目の日本一。西武はプレーオフから中8日、一方の中日はシリーズ開幕5日前の最終130試合目に優勝を決めており、勢いに乗っていると思われた。 西武は第1戦と第2戦に連勝するが、中日も第3戦から2連勝して2勝2敗として五分に戻す。そして迎えた第5戦、両チーム無得点の三回表の中日の攻撃は2死二塁(走者は田尾安志)という場面で打者の平野謙は一塁線を抜ける打球を放つが、これが一塁塁審の村田康一の足に当たり、二塁手の山崎裕之の前に転がる。山崎はボールを拾うと三塁に投げ、三塁を回っていた田尾は戻れずにタッチアウトとなった。「ルール上は審判は石ころと同じ」であるため、このプレイはルールに抵触しない。〔より正確には、「一塁手を抜けた後に塁審に当たったため、インプレー」になる。〕これにより中日は先制機を逃して結果的に敗北したことから、「シリーズの流れを変えた『石ころ』」といわれた。 西武は全6試合を通じて守備に不安のあった田淵幸一と大田卓司の両選手を同時に先発出場させた。ペナントレースでは指名打者があり、どちらか一方が指名打者でもう一方が守備についていた。ただ田淵については機を見て試合中盤でも片平晋作に交代させる用兵を見せた。大田は打棒が冴え渡り優秀選手賞を受賞し以後「シリーズ男」の異名をとるようになる。投手陣では、先発の柱として第1戦と第4戦で松沼博久を登板させ〔未開催だった第7戦にも登板予定だった。〕、エースの東尾修を先発ではなくリリーフに回すという構想がうまく機能し、東尾はリリーフで好投してシリーズのMVPに輝いた。また中継ぎで小林誠二が好投したのも光った。 一方、中日はシーズン中の「野武士軍団」の活躍が影を潜めて敗れた。中日はペナントレースで最後の130試合目まで巨人と優勝争いを繰り広げた末の優勝で勢いに乗っていると思われたが、第2戦にシーズン16勝を挙げた都裕次郎が先頭打者の石毛宏典の打球を足に当てて負傷するアクシデントに見舞われ、以後シリーズの先発ローテーションに苦しんだ。 中日は第1戦で7-3で敗れ、第2戦も先発投手がいきなり負傷降板したため跡を継いだ投手が打ち込まれ2回表で0-6とあっさり大差が付いた。そして中日の攻撃陣も反撃を見せられず0行進が続き、中日のふがいない戦いに激怒したファンが大騒ぎし、試合終了後に球場から引き上げる西武ナインやグラウンドをめがけて物を投げるという行為に及んだ。このため、勝利監督インタビューは中止になるなど球場は騒乱状態となった。これを受けてコミッショナーは第3戦以降の警備を厳重に取る措置を取った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「1982年の日本シリーズ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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