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1999年J1最終節(1999ねんJ1さいしゅうせつ)は、1999年11月27日に行われた日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)ディビジョン1(J1)セカンドステージ第15節のことを指す。本項では特に、その中でディビジョン2 (J2) 降格の可能性があったアビスパ福岡(福岡)、ジェフユナイテッド市原(市原、現・ジェフユナイテッド市原・千葉)、浦和レッドダイヤモンズ(浦和)の試合について記す。 == 最終戦までの経緯 == 1999年、Jリーグはこのシーズンから2部制を導入。J1(当時16チーム)年間総合成績の下位2チームがJ2(当時10チーム)の上位2チームと自動入れ替えすることとなった。 この年、まず低迷したのはベルマーレ平塚(平塚、現・湘南ベルマーレ)だった。平塚は前年、親会社であるフジタの経営不振によりクラブの規模を縮小し、呂比須ワグナーや名塚善寛、小島伸幸、田坂和昭、洪明甫といった代表クラスの選手を大量放出。若手中心で99年シーズンに臨むも1stステージは最下位。2ndステージも浮上のきっかけをつかめず年間わずか4勝にとどまり、2ndステージ第12節に15位以下(降格)が決定した。 一方、浦和は、前シーズン(1998年)の2ndステージで3位と躍進したことにより優勝戦線に絡むと予想されていたが、永井雄一郎や小野伸二がFIFAワールドユース日本代表、石井俊也がシドニー五輪予選の代表としてチームを離れることが多かった上に、吉野智行や盛田剛平などの新人選手の成績が振るわずベストメンバーが組めない状況が続き、1stステージは13位と振るわず、浦和は原博実監督を解任し、2ndステージからオランダ人のア・デモスを監督として招聘した。ところが、シドニー五輪の一次予選で小野伸二がひざを負傷してシーズンのほとんどを離脱するなどのため連敗を重ね、さらには第6節・ジュビロ磐田戦から第9節・名古屋グランパスエイト戦まで4試合連続延長Vゴール負けを喫するなどにより、J1残留争いに巻き込まれることになる。 市原はこの年、前年の天皇杯で横浜フリューゲルスを優勝に導いたゲルト・エンゲルスを監督として招聘するも、前シーズンまで司令塔として機能したネナド・マスロバルの穴を埋めることが出来ず、守備が崩壊したこともあって1stステージで15位と低迷。エンゲルスを解任し監督で臨んだ2ndステージもチーム状況の劇的な改善とはならず、降格圏をなかなか脱出できない。 また、前年のJ1参入決定戦で辛うじてJ1参入を果たした福岡もなかなか波に乗れず、降格圏ぎりぎりの順位をさまようこととなり、シーズン終盤には浦和・市原・福岡の3チームが残留を争う構図となった。 11月23日に行われた2ndステージ第14節、この時点で降格圏の15位は市原(勝ち点22)。14位の浦和とは勝ち点差3、13位の福岡とは勝ち点差が6あり、さらに福岡とは得失点差で10点離され絶体絶命の状況にあったが、福岡のホーム・博多の森で行われた直接対決で市原が福岡に5-0と大勝。残留可能性を残す勝ち点差3以内を確保すると共に、逆に得失点差でのアドバンテージを確保して残留への望みをつなぐ。一方、14位の浦和はヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ1969)に試合終盤に追いつかれ引き分けて勝ち点1の上積みにとどまる。これにより市原に勝ち点差1にまで詰め寄られ、浦和にとって後味の悪い形で残留争いは最終節にまでもつれ込むこととなった。その最終節を残し、順位は以下の通りとなった。 ※平塚は11月20日の時点で降格決定。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「1999年J1最終節」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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