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コソボ暴動(コソボぼうどう)、あるいはコソボ動乱(コソヴォ暴動、コソヴォ動乱)は、2004年3月17日に、当時は形式的にはセルビア領でありながら国際連合コソボ暫定行政ミッション(UNMIK)の統治下にあったコソボ(コソボ・メトヒヤ)において発生した暴動である。コソボのアルバニア人による大規模な破壊行動は、民族浄化の様相を呈しており〔BBC NEWS | Europe | Serb clashes 'ethnic cleansing' 〕、1999年のコソボ紛争以降で最大の暴力騒動であった。 == 経過 == コソボでの民族間の緊張と領土問題は、同地での長年にわたる問題であった。これを原因として1999年にはコソボ紛争が発生している。紛争が終結してから、コソボ自治州は国際連合のUNMIKによって統治され、その治安は北大西洋条約機構(NATO)主導のKFORによって維持されていた。 15万人から20万人のセルビア人やロマが1999年のコソボ紛争によってコソボから逃れていた。 コソボに留まったセルビア人は、コソボの中にセルビア人の集落を形成して閉じこもり、平和維持軍によって守られていた。紛争後も小規模な民族間の暴力は続いていた。民族間対立の規模は次第に低下していったが、コソボに住む少数派のセルビア人たちは、彼らが「継続的な脅迫と迫害」の対象となっていると訴えた。また、セルビア正教会の教会や聖堂、その他の文化的な施設が繰り返し攻撃され、100を超える施設が破壊されるか損傷を受けた。セルビア人とアルバニア人の衝突は、セルビア人が多く住むコソボ北部でも発生し、こちらではアルバニア人が迫害の対象となり、彼らは家を追われ、イバル川以北からの避難を余儀なくされた。 暴動は2004年3月15日に始まった。この日、18歳のセルビア人、ヨヴィツァ・イヴィッチ()が、コソボ中部のチャグラヴィツァ()の村にて通りすがりざまに自動車から狙撃を受けた。村のセルビア人はデモ行動を起こし、銃撃に抗議して交通を封鎖した。3月16日、セルビア人の基礎自治体ズビン・ポトク(Zubin Potoku / Zubin Potok)内のチャバル()村にて、4人のアルバニア人の子供がイバル川へと転落した。うち男児1人が生きて助かった。子供たちは、イヴィッチ銃撃に対する報復として、セルビア人によって川へと追い込まれたのではないかと疑われたが、警察はこの事実を確認していない。 翌3月17日には、数千人のアルバニア人が子供たちの死に抗議し、ミトロヴィツァ / コソヴスカ・ミトロヴィツァのアルバニア人地区とセルビア人地区を隔てるイバル川にかかる橋の南端に集結した。また、アルバニア人の侵入を防ぐために、大勢のセルビア人がこの橋の北端に集まった。NATO主導の平和維持部隊KFORは、催涙ガスやゴム弾、スタン手榴弾を使って橋を封鎖し、アルバニア人とセルビア人の隔離を図った。しかし、両勢力から銃や手榴弾による攻撃が始まり、少なくとも8人が死亡し(6人のアルバニア人と2人のセルビア人)、300人以上が負傷した。11人の平和維持部隊の兵士も負傷し、うち2人は重傷を負った。 暴力は3月18日も続き、最初の銃撃事件が起こったチャグラヴィツァやミトロヴィツァ、リピャン / リプリャン(Lipjan / Lipljan)、カストリオティ / オビリチ(Kastrioti / Obilić)、プリシュティナを含むコソボ全土で大規模な抗議行動が起こった。この日の終わりまでに死者数は28人、負傷者数は600人に至った。この中には、61人の平和維持部隊の兵士、55人の警察官が含まれている。国際連合の報道官イサベラ・カルロヴィッツ(Isabella Karlowitz)は、110の家屋と16の聖堂が破壊されたと述べた。カルロヴィッツはまた、セルビア人、ロマ、アッシュカリーなど3600人が暴力によって住居を失ったと話した 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「コソボ暴動 (2004年)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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