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二十六年式拳銃(にじゅうろくねんしきけんじゅう)は、1890年代初期に開発・採用された大日本帝国陸軍の拳銃。 == 開発 == 創設間もない日本軍で最初に制式とされたS&W No.3 回転式拳銃(初期の陸軍では、針打(センター・ファイア)式のS&W No.3および、蟹目打ち(ピン・ファイア)式の各拳銃を、銃身長や装弾数の違いにより一番形・二番形・三番形として分類し、各々制式としていた〔 Refcode:C04029053800 『蟹目3番形ヒストル銃其他代価の受取方申入』 陸軍省大日記 陸軍省総務局 陸軍歩兵中佐児島@@ 明治13年4月29日 「総水局第三三二号 形@蟹目三番形ピストル銃三挺 但目弾薬四@発添 五連針打三番形ピストル銃三挺 但目弾薬百発添 右砲兵第二方面ニ於ケル売却@代価@局可相納ニ付御@@@此段申入候也 十三年四月二十九日 陸軍歩兵中佐児島@@ 会計局 長官御中」 〕)は強力な弾薬を使用でき、壊れ難い頑丈な構造を有していたが、その重量・サイズの大きさやシングル・アクション(S/A)専用で片手での連射に難のあった点が欠点とされ、ダブル・アクション(D/A)機構を有する拳銃が待望されていた。 既に村田銃の国産化に成功していた陸軍は、1886年(明治19年)にフランス軍用MAS 1873拳銃を入手 〔 当時のフランス軍はインドシナなど高温多湿な熱帯植民地を獲得しており、弾薬の防湿性の低さと発火の不確実さに悩まされ続け、1879年のトライアルで採用されたGaupillatによる改良型弾薬によって、ようやくその解決を見ていた。(''12 mm French for 1873 Navy revolver'', HISTORIA DEL CARTUCHO )こうした情報は第二次仏軍軍事顧問団を通じて既にもたらされており、研究用拳銃の入手に際しては、ゴービヤ(Gaupillat)拳銃(またはゴーピ式拳銃)の入手が、フランス駐在武官の鶴田砲兵大尉に対して求められている。 Refcode:C03030092300 『仏国日本公使館、シャーテルロー銃器工作物の儀に付照会』 陸軍省大日記 戸山学校長 茨木惟昭 明治19年7月 「シャーテルロー銃器工作場拳銃買遣シ方如此申込 蜂須賀公使ヘ御照会案 先般シャーテルロー銃器工作場ノ改良ニ係ル拳銃等買入方之義及御依頼候処過ル四月十六日付ヲ以テ該銃ハ士官用ニ不適当既ニ廃棄属シ候趣@ニ御回答之趣領承就而ハ右代品トシテ@@ゴービヤ拳銃外弾薬筒及ビラベーステレメートル外三点購入致度此ハ御地在留鶴田陸軍砲兵大尉ヘ申遣置候得共尚於貴館購入回送方等可然同人ヘ御指揮相成旨此如再応及御依頼候也〜」 Refcode:B07090253700 『11. 戸山学校ニ於テ入用ノ拳銃買入代金ノ件』 陸軍大臣侯爵大山巌 明治20年2月18日 「一一、受第一六七〇号 在仏国原代理公使ヘ之別紙電報通信方可然御取計相成度此段及御依頼候也 明治二十年二月十八日 陸軍大臣侯爵大山巌 外務大臣侯爵井上馨殿 戸山@子校ニ於テ入用之巻銃等買入代金之@リ之仏国ゴービヤ拳銃@葉@更ニ七千五百@買入送付スベキ@@田大@@@有タシ〜」 “To Mr.Hara ''Japanese Legation, Paris, France.'' Inform Captain Tsuruda to buy ●●● 7500 cartridge of Gaupillat pistol more with the remainder of the expense on pistol etc. bought for Toyamagakko, and send them. Oyama ''Minister of war''” 〕 し、陸軍戸山学校において国産化研究を始めたが、維新以来の技術的な蓄積により模倣が比較的容易だったグラース銃 〔グラース銃は、幕末に輸入されたシャスポー銃とほぼ同じものであり、西南戦争前から国産化が検討されて、これが実現したものが村田銃である。 〕 とは異なり、日本とは桁違いに高いフランスの工業水準を背景に、より新しい技術で製造されていたMAS 1873拳銃の模倣は困難をきわめた。 MAS 1873拳銃は銃身と一体化したフレーム内に弾倉が固定されている構造だったため、中折れ式よりも頑丈(=高圧の弾薬に耐え得る)だったが、中折れ式のS&W No.3に比べて排莢・再装填に時間がかかる点が嫌われ、中折れ式の継承を望んでいた騎兵科からの上申により、.38口径で中折れ式とD/A機構を兼備した“スミスウエソン五連発拳銃”(S&W .38 Double Action拳銃)の採用が、この時期に検討された記録も残されている。 〔Refcode:C06081864500 『騎兵隊下士卒携帯拳銃改定の件 陸軍省大日記 明治26年6月9日 「第一〇五号 受領番号二十三年貳第三〇七号砲兵会議へ御達案 騎兵隊下士携帯拳銃之義ハ其会議意見之通「ゴピー」式拳銃ニ改定ノ条不置く品審査スヘシ 陸軍省送達送乙第一〇一五号 監軍部送達甲第九四二号 騎兵隊下士携帯拳銃改定之義別紙甲号之通リ騎兵監具申候ニ就キ砲兵会儀ニ於テ審査セシメ候處別冊乙号〜 〜今回スミスウエソン五連發拳銃ヲ以て騎兵隊用拳銃トシテ定相成度●拳銃ハ軽便ニシテ適當ノモノト〜」 同銃の中折れ構造は二十六年式拳銃にも導入されたほか、後に姉妹品である.32口径版が桑原製軽便拳銃として民間でコピー生産され、二十六年式拳銃より強い威力を持ちながら小型で安価だったため大変な好評を博している。 〕 また、MAS 1873拳銃は黒色火薬を用いた弾薬を使用していたが、同時期に欧州で製品化されたばかりの無煙火薬採用が追加して求められるなど、東京砲兵工廠での国産化計画は1893年に至っても具体的成果を挙げられないまま難航した。 国産化の試行開始から7年を経た1893年に至り、MAS 1873拳銃を模倣するプランは放棄 〔Refcode:C06081734000 『火薬箱製作受授達並ゴピ-式拳銃製作受授取消の件』 陸軍省大日記 軍務局長 明治26年2月9日 「二第二二四号 火薬箱製作受授御達並ゴピー式拳銃製作受授取消之儀御達並通牒之件 東京砲兵工廠ヘ御達案 火薬箱 右至急製作之上砲兵第一方面ヘ引渡代価ハ同方面ヘ請求スヘシ 砲兵第一方面ヘ御達案 品目員数前同断 右至急製作引渡方東京砲兵工廠ヘ達相成候条受領スヘシ 送乙第一七二号 高級副官ヨリ東京砲兵工廠並砲兵第一、第二文局ヘ通牒案 客年七月送乙第二一一一号ヲ以テ製作引渡方御達相成候兵器弾薬ノ内ゴピー式拳銃同実包及空包ノ三点今般取消相成候条此段及御通牒候也 送乙第一七三号 (但砲兵第一方面ヘハ「製作引渡」ヲ受領送達」ニ砲兵第二方面ヘハ「受領」ニ@ユ) 明治二十六年二月九日 軍務局長 〕 され、世界中に多くの銃器を輸出して日本の銃器開発とも密接な関係のあった、ベルギー製“9mm Belgian Nagant M1878”と、その弾薬である“9mmx22R”弾をモデル 〔A 9 m/m Belgian Nagant cartridge , Belgian Nagant Revolvers 〕 〔 Mosin-Nagant小銃の設計者としても知られるNagant兄弟のデザインに基づく回転式拳銃の完成形は、ロシア帝国軍に採用されたNagant M1895(独自のガス・シール機構を持つ)となった事で知られている。 尚、日露戦争で日本軍と交戦した極東のロシア軍は、欧州に比べて装備の更新が遅れていたため、S&W ロシアン・モデルを使用していた事が知られている。 同銃はS&W No.3のロシア向け輸出バージョンだったが、日露戦争ではこの銃が大量に鹵獲された。 その後、鹵獲品のS&W ロシアン・モデルは、日本軍から退役した多数のS&W No.3とともに倉庫に眠っていたが、1938年に日本が後援して成立させた汪精衛政権軍に供与された。 日本の敗戦と汪精衛政権の崩壊により、これら旧式拳銃多数も国民党軍によって接収されたが、近年になって台湾の倉庫で眠っていたものが発見された例が知られている。 〕 に、S&Wの中折れ式機構を足した独自設計の拳銃が急遽開発され、これが1893年(明治26年)〔 二十六年式拳銃が実際に形となって生産が始まるのは1894年(明治27年)以降の事であり、同時期に民間で製造された桑原製軽便拳銃と、ほぼ一緒にデビューを迎えている。 Refcode:C08070404100 『東京砲兵工廠 二六年式拳銃制式図』 陸軍省大日記 陸軍大臣伯爵大山巌 明治27年6月20日 「陸逹第六十号 二十六年式挙銃制式別紙図面ノ通定ム 明治二十七年六月二十日 陸軍大臣伯爵大山巌 二十六年式挙銃(1/2)(1/4)」 〕に陸軍の新制式拳銃として採用された 〔 1853年のペリー来航時に徳川家慶に献上された米国製のドラグーン型回転式拳銃が、積極海防派の代表的人物だった徳川斉昭治下の水戸藩で国産化されていたため、国産の回転式拳銃は二十六年式拳銃の登場以前に存在していた。 水戸藩で製造されたドラグーン拳銃は、1860年に発生した桜田門外の変において、水戸浪士の多くがこの拳銃を携帯して襲撃に参加していた、との口伝を子孫が伝えているほか、その現物も残されており、当時の日本には近代工業基盤が存在しなかったため、製造技術水準が低く銃身内にライフリングが刻まれていなかった事も判明している。〕 。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「二十六年式拳銃」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Type 26 revolver 」があります。 スポンサード リンク
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