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30万人募兵令〔正式名は「軍隊の募兵方法を定めるデクレ()」という。〕(さんじゅうまんにんぼへいれい、)は、フランス革命期の1793年2月24日に国民公会によって制定されたもので、苦境に陥った革命戦争に必要な兵士30万人を募集するにあたり、志願兵の不足分を各市町村に割り当てて強制徴募する法律である。30万人動員令、または募兵法ともいう。この法令はアマルガム法と同時に審議され、共和国軍の再編成を意図したものであった。 徴集兵の人選方法の決定は市町村会の多数決に委ねられたが、代理人制度が認められるなど、いくつか不平等な条項があり、農村部ではアンシャン・レジーム時代に農民に課されたくじ引き兵役〔ルイ14世の時代に創設された国民民兵制の俗称。徴税制度に用いられた教区(農村共同体)毎に一定の人数を割当てて強制的に人員を供給させるという強制募兵制(または旧徴兵制)で、免除や代理が認められていたので、実質的に貧しい農民のみに課された。正規軍を補完する補助部隊であったが、兵役期間は当初2年から後には4年から6年へと拡大され、極めて負担の重い、不平等・不公正の象徴とされた制度の一つ()〕を思い起こさせたために激しい反発を生み、ヴァンデの反乱を引き起こした。内戦の勃発は恐怖政治を誕生させ、総動員法()〔1793年8月23日制定。歴史上、戦時国家総動員を定めた最初の法律。人材と物資の両方が無制限に徴用できるもので、恐怖政治の基礎をなす法令の一つ〕によって法令はさらに強化されるが、徴兵制度〔世界初の近代徴兵制度はフランスの総裁政府が1798年9月5日に制定したジュールダン法である〕とは趣旨が異なり、義務兵役ではなく、あくまでも志願兵制度を基本として不足分を補充するに留まるものであった。 == 背景 == フランス革命は、アンシャン・レジームの職業軍人を中核とする軍隊をそのまま受け継いだが、この古い軍隊での士官は1781年のセギュール〔セギュール侯爵は、第1期ネッケル時代の戦争大臣で、軍制改革を行った。フランス王国の元帥。(Philippe Henri de Ségur)〕法により4代までさかのぼる貴族に限定されていて、戦時に必要になる兵員は、外国人傭兵と農村に課された封建的な兵役(国民民兵制)に依存し、徴集は地方ごとに連隊の枠内で行われていた。また過酷な規律と体罰を基本とする当時の軍隊では士気が低かったが、革命によって高められた平民の貴族との軋轢によって兵士の反抗が常態化し、1790年〜1791年にかけて各地では兵士の反乱とそれを鎮圧する事件とが相次いでいた。その最大のものはナンシーの反乱として知られる。 軍隊は、9,000人の貴族士官のうち約半数が亡命しているような状態で、兵士についても1791年5月4日に国民民兵制が廃止されて、自由意志に基づく軍隊になったのは良いが、平時体制で数を通常よりも大きく減らしたままで、新たな召集手段を持たなかった。数の不足を補うべく、6月13日に国民義勇兵制度〔義勇兵は待遇面で傭兵である正規軍よりも優遇され、別組織とされた。革命戦争初期にはこれらは反発しあったので、アマルガム法で再編成が必要になった〕を創設し、各県の国民衛兵〔現代で言うところの州兵に相当する国内治安部隊。装備は自費で揃え、有事にだけ非常召集されるパートタイムの兵士で、革命の極左化を防ぐため度々資格審査が強化されたブルジョワ民兵である。各県や主要都市で組織された。内戦が始まると大々的に動員され、部隊ごとが軍に編入されて国境の外まで派兵されたケースもある〕の中から20人に1人割合で選抜して軍に編入したが、それを含めても戦前の段階で軍隊には10万人がいただけであった。 このような実態にも関わらず、ピルニッツ宣言の挑発を受けたフランス国内では政治的理由で開戦論が勢いづいた。1792年4月20日、フランスがオーストリアへ宣戦布告してフランス革命戦争が勃発すると、この統制を乱し、数も十分とは言えない軍隊は連戦連敗したため、7月11日、立法議会は「祖国は危機にあり」の宣言を出して、緊急に新たな志願兵を募った。8月10日事件の王制打倒の熱気そのままに多くの市民がこの応募に殺到し、大量の士気旺盛なる志願兵を中心とした新しい軍隊は、9月以降めざましく活躍して、ヴァルミーの戦いやジェマップ会戦〔(Battle of Jemappes)〕で勝利して、外国軍を国境の外に撃退することに成功した。 しかし短期間で決着すると思われていた戦争の長期化は別の問題を発生させた。開戦前の1791年12月28日の法令によって「志願兵は各戦役の終わりには自由に退役でき」「戦役は毎年12月1日に終わるとみなされる」と規定されていたため、志願兵を拘束できる契約期間は1年〔アンシャン・レジーム期の募兵制度で正規軍に応募した者の契約期間は6年から8年であった。この遙かに短い拘束期間は、立法議会があくまで志願兵は臨時的なものと考え、全面戦争を予期していなかった傍証〕に過ぎなかったから、1792年末には兵士達の帰休と除隊で、隊列は大きく損なわれ、軍隊は人員の不足に見舞われたのである。熱狂的な市民のあらかたはすでに出征を経験しており、さらに志願者を募るのは難しい情勢であったので、ある程度義務的な兵役制度の助けを借りる必要があった。 軍事委員会の委員で、モンターニュ派の議員デュボワ=クランセ〔エドモン・ルイ・アレクシス・デュボワ=クランセ。元貴族軍人の立憲議会議員、モンターニュ派の国民公会議員で、軍制の再編や反乱鎮圧に功績があった。(Edmond Louis Alexis Dubois-Crancé)〕は、かねてから兵役の義務化を考えていたが、1793年1月5日、前線を視察して50万の軍隊を作り上げるためには追加で30万人の兵員募集が必要であると報告し、法制化が進められることになった。次いで2月7日、デュボワ=クランセは旧職業軍隊と志願兵部隊の融合が必要であるとアマルガム法の制定も提唱したが、2月12日、サン=ジュストがこれに同調して演説し、軍隊に民主化のためとして選挙制の昇進制度を付け加えた。後者は実施が間に合わなかったが、2月24日、30万人募兵令は議会で可決され、新しい軍団の創設が急がれた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「30万人募兵令」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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