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3月8日革命 : ミニ英和和英辞書
3月8日革命[さんがつ8にちかくめい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [つき]
  1. (n-t) moon 2. month 
: [にち, ひ]
  1. (n-adv,n-t) sun 2. sunshine 3. day 
: [かわ]
 【名詞】 1. skin 2. hide 3. leather 4. fur 5. pelt 6. bark 7. shell 
革命 : [かくめい]
 【名詞】 1. revolution 
: [めい, いのち]
 【名詞】 1. command 2. decree 3. life 4. destiny 

3月8日革命 : ウィキペディア日本語版
3月8日革命[さんがつ8にちかくめい]

3月8日革命() ‎は、1963年シリアクーデター、1963年3月革命、バアス革命とも呼ばれるシリアで起きたクーデターである。アラブ社会主義復興党バアス党)シリア地域指導部は軍事委員会の働きで権力奪取に成功した。計画実行は、イラクのバアス党のクーデターの成功に触発されたものであった。
クーデターはバアス党の文民ではなく、軍事委員会によって計画されていたが、党の指導者ミシェル・アフラクも計画に同意していた。計画した軍事委員会の主要メンバーは、、サラーフ・ジャディードハーフィズ・アル=アサドだった。委員会はナセル主義者のラシード ・アル=キターニーとムハンマド・アル=スーフィー、独立勢力のジアード・アル=ハリーリーも召集した。クーデターはもともと 3月7日に計画されていたが、謀議のために集まっていたところを政府当局に発見され、翌日に延期された。
== 計画 ==
1962 年にアラブ社会主義バアス党シリア地域指導部の軍事委員会は、従来型の軍事クーデターを通じて政権奪取する計画に大半の時間を費やした。軍事委員会は、アル=キスワとカタナーの2箇所の軍の駐屯地を占拠し、アル=キスワの第70機甲旅団、ホムスの陸軍士官学校、ダマスカスのラジオ局を抑えることを決めた。軍事委員会はすべて若いメンバーであるのに対し、当時の政権は徐々に崩壊し、伝統的なエリートは政治的影響力を失っていた。
クーデターを成功させるために、軍事委員会は将校のサポートを得る必要があった。1961年アラブ連合共和国(UAR) の崩壊によって、将校達は完全な混乱に陥り、反政府活動への端緒を開いた。その時点で、将校たちは5つの異なる派閥に分かれていた。旧体制を支持するダマスカス派、アクラム・アル=ホーラーニー支持派、ナセル主義者派、バアス党派と無所属グループがあった。ダマスカス派は政権を支持していたことから軍事委員会の敵であり、一方でホーラーニー派は汎アラブ主義に対する立場のため、ライバルと考えられていた。結局、バアス党派はナセル主義派と同盟を組むことになった。しかし、ナセル主義派はエジプトガマール・アブドゥル=ナーセル大統領を支持しており、アラブ連合共和国の再建も目指していた。
軍事委員会はナセル主義者との同盟によって、軍情報部長官のキターニー大佐とホムス旅団司令官のスーフィー大佐に秘密裏に接触した。また、下級将校グループに対し、無所属派の大物で対イスラエル前線司令官のハリーリーを取り込むように命じた。この計画は成功し、ハリーリーに「もし我々が勝てば参謀長になれるし、失敗した場合は、あなたは関係を否認することができる。」と約束した。ハーリド・アル=アズム首相がハリーリーの降格を計画していたこともあり、ハリーリーは軍事委員会を支援した。
クーデター計画されている一方で、民間人のバアス主義者は軍事委員会とそのメンバーに眉をひそめていた。軍とバアス党の同盟の理由は、当初は党を抑圧から保護するためであった。しかし、軍事委員会はアフラクが率いる文民の指導部を好意的に見ていなかった。アラブ連合共和国時代にバアス党を解党したのが、アフラクだったからである。しかし、アフラクは権力掌握のために軍事委員会が必要であり、支持基盤のない軍事委員会も権力維持にアフラクを必要としていた。1962年5月8日に第 回バアス党の党大会が開催され、党の再建とアフラクの民族指導部事務総長の続投が決定した。軍事委員会の主要メンバーであったウムラーンも代議員として出席し、アフラクに軍事委員会の計画を伝えた。アフラクはクーデターに同意したが、クーデター後の権力分与については、何の取り決めもなされなかった。
1963年2月、バアス党イラク地域指導部がイラクにおいて、アブドルカリーム・カーシム政権を打倒した(ラマダーン革命)。バアス党イラク地域指導部は、軍人に加え、中産階級の市民の支持を得ていた。それまで、アラブ・ナショナリズム運動において、ナセル主義者は独占的な勢力を持っていたが、イラクでのクーデターの成功で、バアス党も侮れない勢力であるとの認識が広まった。一方、シリア地域指導部においては、中流階級の市民の支持は得られていなかった。アフラクは、シリアにおいては支持が不十分だと警告していたが、その認識は共有されなかった。シリアのバアス党軍事委員会はクーデターを1963年3月7日に決行することを計画していた。しかし、軍情報部がクーデター参加者の集まる予定だったアパートを急襲した。アサドは3月8日に変更になったことを他の部隊に伝える役目を担った。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「3月8日革命」の詳細全文を読む




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