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普墺戦争(ふおうせんそう、)は、1866年に起こったプロイセン王国とオーストリア帝国との戦争。当初は、オーストリアを盟主とするドイツ連邦が脱退したプロイセンに宣戦するという普独戦争としてで開始されたが、その後ドイツ連邦内にもプロイセン側につく領邦が相次ぎ、連邦を二分しての統一主導権争いとなった。ケーニヒグレーツの戦いでプロイセン軍がオーストリア軍に完勝し、戦争は急速に終結した。「7週間戦争」や「プロイセン=オーストリア戦争」〔『詳説世界史』(山川出版社。2002年4月4日 文部科学省検定済。教科書番号:81山川 世B005)p 229に「プロイセンはデンマークからうばったシュレースヴィヒ・ホルシュタイン両州の処分に関して, 1866年にオーストリアとたたかってこれを破り(プロイセン=オーストリア戦争), ドイツ連邦を解体し, 翌年プロイセンを盟主とする北ドイツ連邦をつくりあげた。」と記載されている。〕とも呼ばれる。この戦争によってドイツ統一はオーストリアを除外してプロイセン中心に進められることになった。 ==背景== 19世紀後半、第二次産業革命の波はドイツにも流れ込んだ。しかし、小国分立で十分な経済圏が無い当時のドイツでは、重工業の健全な発展は不可能であった。 このままでは弱小な農業国から抜け出せないという焦りから、ドイツ民族の統一を求める民族主義が各地で高まったが、具体的な統一方法では意見が分かれた。特に、領土の広さだけで見れば、ドイツ本土全体に匹敵するほどの広大な領土を中東欧に持つ一方、ドイツ人地域(現在のオーストリアの版図に近い)を中枢とするとはいうものの、多数のスラヴ人・マジャール人を支配するオーストリア帝国を、統一ドイツに含めるか否かは大問題であった。 ドイツ民族以外を統一ドイツに入れるわけにはいかないという民族主義的意見、オーストリアを入れれば事実上他の地域は属国になってしまうという政治的意見、逆に現実的にはオーストリアには逆らえないという意見等があった。非ドイツ人地域を独立させてドイツ人地域オーストリアを入れる大ドイツ主義と、それを容認しない小ドイツ主義に、非ドイツ人地域もふくめた統一国家を目指す中欧帝国構想の3つの意見が分れ、それを政治的に利用する国が現れた。 大ドイツ主義は多数派の理想ではあったものの、当然オーストリアが拒否した。オーストリアの掲げる中欧帝国構想を拒否しての小ドイツ主義は、精強な軍隊を持ち、ドイツでも一目置かれていたプロイセン王国が旗手となった。 過去にはナポレオン戦争やポーランド分割で協調体勢も見せていた両国だったが、プロイセンが首相オットー・フォン・ビスマルクの下、軍備増強の強硬な政策をとるに至り、オーストリアとの対立が表面化する。プロイセンは一旦はオーストリアに融和的な姿勢を示し、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(1864年)ではオーストリアと連合してデンマーク王国と戦い、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国をプロイセン・オーストリア両国の共同管理とした。しかし、これはビスマルクの策略であった。プロイセンはやがてオーストリア管理地域に介入し、オーストリアを激怒させた。ここに普墺戦争が開始される。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「普墺戦争」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Austro-Prussian War 」があります。 スポンサード リンク
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