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A-10サンダーボルトII : ミニ英和和英辞書
A-10サンダーボルトII[あいあい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

A-10サンダーボルトII ( リダイレクト:A-10 (航空機) ) : ウィキペディア日本語版
A-10 (航空機)[えい10]

A-10は、フェアチャイルド・リパブリック社の開発した単座、双発、直線翼を持つアメリカ空軍初の近接航空支援(CAS)専用機。戦車装甲車その他の地上目標の攻撃と若干の航空阻止により地上軍を支援する任務を担う。
公式な愛称は第二次世界大戦中に対地攻撃で活躍したリパブリック P-47に由来するサンダーボルトII(Thunderbolt II)だが、一般にはウォートホッグ(イボイノシシ)やホッグ(ブタ)という渾名で広く知られている。
二次任務の前線航空管制機として地上攻撃機の誘導に当たる機体はOA-10と呼称される。
== 開発 ==
1950年代-1960年代にかけてのアメリカ空軍の戦略ドクトリン核兵器による大規模破壊相互報復であった。この期間の爆撃機は核兵器搭載のために設計され、戦闘機の大半も核兵器搭載可能になったことで近接航空支援や地上攻撃は戦闘機の副次的任務と考えられていた。このため、戦闘機として第一線を退いたF-100 スーパーセイバーをこの任務に充てていた。しかし、ベトナム戦争においては核兵器を使うような事態は発生せず、軽視していた近接航空支援が主任務となった。
これを担うのにF-100のような超音速戦闘機は適していると言えず、海軍A-1 スカイレイダーを借用したりA-7 コルセアIIを制式採用したが、A-1は老朽化が進み、A-7ではF-100やその他の戦闘爆撃機と同様に敵味方の近接した中で有効な支援を行うのに必要な低速度での運動性がなかった。このため、ダグラスAC-47フェアチャイルドAC-119ロッキードAC-130といった輸送機を改装したガンシップを対人阻止および対地攻撃に使用して特に夜間に効果を上げ、最終的には練習機を改装したノースアメリカン T-28セスナ A-37を対ゲリラ戦や地上攻撃に使用した。このためアメリカ陸軍だけではなくアメリカ空軍内でも近接航空支援充実の要望が高まり、ベトナム戦争で多くのアメリカ軍対地攻撃機を撃墜した小火器地対空ミサイル小口径対空兵器にも対応できる専用機体の調達を促すことになった。また、近接航空支援に使用されるUH-1 イロコイAH-1 コブラの小口径機関銃や無誘導ロケット弾非装甲目標にしか対応できないという意見もあった。F-4 ファントムIIを近接支援機として使用するアイデアもあったが、その高い巡航速度と莫大な燃料消費は空中待機を許さず、緊急出動に限られることとなった。また、F-4設計当時は「ミサイル万能論」のために空対空のドッグファイト性能が軽視されており、初中期型は固定武装を持たない機体が多かった。そして、M61 20mm機関砲を搭載しない型では走行中の装甲車両には無力であった。
1967年3月6日にアメリカ空軍はエーブリー・ケイ大佐を責任者に据えて21社に対してA-Xまたは実験攻撃機と呼ぶ低価格の攻撃機の設計研究を目的とする提案要求を提示した。1969年には空軍長官はピエール・スプレイに対して提案されたA-Xに対する詳細要件を作成するように依頼したが、スプレイがF-Xの論議に関わっていたという経緯から内密とされた。
スプレイはベトナムで作戦に従事するA-1 スカイレイダー操縦士との議論や近接航空支援に使用している機体の有効性の分析の結果、必要なのは長時間の空中待機、低速での運動性能、強力な機関砲、卓越した生存性を持つ、イリューシン Il-2ヘンシェル Hs129、A-1 スカイレイダーの長所を兼ね備えた機体であると結論付けた。また、機体価格は300万ドル未満とした。
1970年5月にアメリカ空軍はソビエト連邦機甲部隊対応と全天候戦闘を重視したより詳細な提案要求を提示した。要求性能としては口径30mmのガトリング砲を装備し、16,000lbf(7,258kg)以上の兵装搭載能力、進出距離400kmで2時間の空中待機という高い航続性能、低高度での高い機動性、簡易飛行場を使用可能な優れた短距離離着陸性能、高い生存性、容易な整備性などが出された。

ボーイング社、セスナ社、フェアチャイルド社、ジェネラル・ダイナミクス社、ロッキード社、ノースロップ社から設計案が提出され、1970年12月8日にノースロップ社とフェアチャイルド社の案を採択し、それぞれYA-9AとYA-10Aとして試作されることになった。YA-10Aは1972年5月10日に初飛行し、YA-9Aは10日遅れの5月20日に初飛行している。
1972年10月10日-12月9日の比較評価試験で操縦特性はYA-9Aに劣るものの生存性と試作機からの量産改修点の少なさを高く評価され、1973年1月18日A-10として制式採用となり、前量産機として10機が発注された。
その後、議会筋の圧力により前量産機のうち4機(73-1670-73-1673)をキャンセルした上に、アメリカ空軍内部でもすでに装備しているA-7Dとの並行装備に対する疑問が出され、A-7Dとの比較評価を受けることとなった。
1974年ヨーロッパの地勢や天候に似たカンザス州フォートライリイをテスト場とするためにカンザス州マッコーネル空軍基地を拠点としてA-7DとA-10Aの操縦経験のないF-100もしくはF-4のパイロット4名が参加した。1月-4月にかけて両機の初等訓練から慣熟飛行を行った後、4月15日からテスト場に設置した地上目標と防空陣地に対する16任務各2出撃のテストを実施した。任務は敵軍と友軍の戦況が膠着した場合と敵軍が友軍を迅速に突破した場合に大別され、武装は最大12発のMk.82 500ポンド爆弾、ロックアイ集束爆弾、ナパーム弾、(A-10へのインテグレーションが未済であったためにシミュレーションによる)AGM-65 マーベリックを使用し、また、上限高度も1,000ft、3,000ft、5,000ft、制限なしとされた。比較審査の結果はM61A1と同等の速射力と、より大きな破壊力を持つGAU-8 30mm機関砲が固定武装として選定された。さらに、対空砲火への抗堪性、良好な操縦性による対空戦闘での脆弱性の軽減、及び特に低雲高や視界の制限された条件で近接航空支援を実施する際の良好な操縦性によりA-10が近接航空支援用により優れた機体であることを示した。これによりA-10の必要性を認めた議会は開発の継続を認め、当初140万ドルの機体単価は170万ドルになったものの、生産計画は予定通りに進行し、1975年10月にA-10前量産初号機(73-1664)の初飛行を実施した。
1976年3月にアリゾナ州デビスモンサン空軍基地への配備が始まり、1977年10月に最初の飛行隊が実戦配備可能となった。最終号機は1984年に出荷され、総数715機を生産した〔A-10/OA-10 Thunderbolt II History 〕。A-10の操縦は非常に容易と考えられたために複座練習機型は製造されなかった。
当初は739機の生産が計画されたが、最終的に1983年までに719機で生産が完了した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「A-10 (航空機)」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Fairchild Republic A-10 Thunderbolt II 」があります。




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