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ACTミニ・シアター(アクトミニ・シアター、1970年代 開館〔〈ACTミニシアター〉の昼下がり 前篇 、南陀楼綾繁、早稲田古本ネット、2010年11月14日閲覧。〕 - 2000年ころ 閉館)は、かつて存在した日本の映画館である〔『映画館名簿 1999年版』、『映画年鑑 1999年版』付録、編集日本映画製作者連盟配給部会、発行時事映画通信社、1998年12月1日、p.29.〕。新作上映を中心としないいわゆる名画座であり、16mmフィルムベースによるサイレント映画以来のフィルム・アーカイヴを持ち、同アーカイヴ所蔵以外の作品も上映した。同経営によるACT SEIGEI THEATER〔『映画館名簿 1999年版』、p.32.〕についても記述する。 == 略歴・概要 == 正確な年月日は不明であるが、1970年代のある時期、映画人を含めた人々の資金的支援を受けて開館する〔。経営は沢健司を代表とする有限会社アクトである〔。 同館が入居していた「早稲田通りビル」は早稲田通りに面しており、1969年(昭和44年)11月竣工の鉄骨6階建ての住居用も含めた雑居ビル〔早稲田通りビル 、クオラ不動産、2010年11月14日閲覧。〕で、1階には早稲田通郵便局が現在も存在し、その右脇の階段を上ると入口があった〔。客席に椅子席はなく、靴を脱いで入場し、カーペット敷のフラットフロアに座り、寝そべる形式なのが特徴であった〔。プログラムとして「ACT」を会員・観客等を対象に発行・配布した〔。 時期によって制度が異なるが、「ACT シネ・フレンド」という会員制度を設け、年会費によってフリーパス、半額等の特典があった〔高田馬場ACTミニシアター (チラシ画像あり)、女おいどん日記、2010年11月14日閲覧。〕。 1977年(昭和52年)6月、映画雑誌『シネ・フロント』6月号に「ACTミニシアター訪問」として、穂積純太郎のルポルタージュにより同館が紹介される〔バックナンバー 創刊号から300号まで 、シネ・フロント、シネ・フロント社、2010年11月14日閲覧。〕。 1986年(昭和61年)には、フィルム・アーカイヴのほかに、今井正、新藤兼人、山田洋次、能登節雄ら映画人を世話人として、書籍等の資料をもつ映画資料館を開設した〔〔『キネマ旬報 1986年1月上旬号』(第926号)、キネマ旬報社、1986年1月、p.40.〕。同時期に、前川つかさのマンガ『大東京ビンボー生活マニュアル』(『モーニング』連載、1986年 - 1989年)に、同館をモデルとしたとされるフラットフロアの映画館が登場する〔。1988年(昭和63年)9月には、映画雑誌『シネマ・ジャーナル』7号に代表の沢健司がインタヴューされ、同館が紹介される〔シネマジャーナル Vol. 7 、シネマ・ジャーナル、2010年11月14日閲覧。〕。 1986年(昭和61年)には、池袋にACT SEIGEI THEATERを開館、1994年(平成7年)9月には、雑誌『太陽』で紹介された〔『太陽』第399号、平凡社、1994年9月、p.40.〕。 1990年代には、俳優・監督別の特集上映「日本映画をおもしろくした100人」を長期にわたり行なった〔〔〈ACTミニシアター〉の昼下がり 後篇 、南陀楼綾繁、早稲田古本ネット、2010年11月14日閲覧。〕。 1999年(平成11年)には、池袋のACT SEIGEI THEATERが閉館。 2000年(平成12年)には、ACTミニシアター西早稲田本館が閉館した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ACTミニ・シアター」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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