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AK-47(、ラテン文字転写:)は、ミハイル・カラシニコフが設計し、1949年にソビエト連邦軍が制式採用した自動小銃である。 実戦の苛酷な使用環境や、戦時下の劣悪な生産施設での生産可能性を考慮して、部品の公差が大きく取られ、卓越した信頼性と耐久性、および生産の容易性を実現することに成功した。 この特性から、本銃はソビエト社会主義共和国連邦のみならず、全世界に普及した。基本設計から半世紀以上を経た今日においても、本銃とその派生型は、砂漠やジャングル、極地など、あらゆる世界の紛争地帯における軍隊や武装勢力の兵士にとって、最も信頼される基本装備になり、『世界で最も多く使われた軍用銃』としてギネス世界記録に登録されている。 本記事では、直接の改良型であるAKM、その他7.62x39mm弾を用いるシリーズ製品、および各国で生産されたモデルについても記述する。 == 開発 == 元々赤軍の戦車兵だったミハイル・カラシニコフは、負傷による入院中に銃器設計への関心を強め、1942年から小火器設計に関わり始めた。 1940年代中頃、カラシニコフを含む複数の設計者は、火薬量を抑えて反動を軽減した弱装弾の一種である新型弾薬7.62x39mm弾を用いるセミオートマチック・カービンの設計に着手する。最終的にの設計案が支持され、1945年にSKSカービンとして採用された。この時、ソ連邦当局では並行してナチス・ドイツが独ソ戦において投入したStG44と同種の、いわゆる「アサルトライフル」の開発を計画していた。最有力候補は、短機関銃の設計者として著名なアレクセイ・スダエフが手がけた突撃銃だったが、スダエフの死去により頓挫している。ほかにも、さまざまな設計案が提出されてきたが、戦後の1946年にカラシニコフが提出したAK-46という設計案が最初の審査に合格する。カラシニコフは1年を費やしさらなる改良を重ね、1948年には最優秀の設計案として限定的な先行量産が決定した。そして軍での試験的な運用を経て、1949年にはついにソビエト連邦軍の主力小銃として制式採用されたのである。 戦車兵だったカラシニコフは設計者としての専門的な教育を受けていなかったため、AK-47設計の際も正しい設計図面を描けなかった。彼に代わって図面を描いたのは、後に妻となる女性技師エカテリーナ・ヴィクトロヴナ・モイセーエフ(Ekaterina Viktorovna Moiseyeva)であった。 当初の制式名称は「7.62mm アブトマット・カラシニコバ」であり、「AK-47」の呼称は、後にいくつもの改良型が登場したため、それらと区別するためであった〔ホビージャパン『カラシニコフ・ライフルとロシア軍の銃器たち』70頁、カラシニコフ本人による証言〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「AK-47」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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