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BT-5(ロシア語:ベテー・ピャーチ)は、ソ連で開発された快速戦車()である。これは騎兵部隊の支援や、長距離侵攻を目的に開発された、BT-2の火力増強を狙った改良型であった。1932年秋、労農赤軍機械化自動車化局(UMM)によりBT-5の名称が与えられ、10月21日に試作車が完成した。1933年後半から生産開始され、翌年と合わせて1183輌が作られた。''ベテー・ピャーチ)は、ソ連で開発された快速戦車()である。これは騎兵部隊の支援や、長距離侵攻を目的に開発された、BT-2の火力増強を狙った改良型であった。1932年秋、労農赤軍機械化自動車化局(UMM)によりBT-5の名称が与えられ、10月21日に試作車が完成した。1933年後半から生産開始され、翌年と合わせて1183輌が作られた。 == 概要 == 本車はBT-2を各方面から強化・改良したものである。溶接した部分の強度が落ち、振動や衝撃でクラックの発生する問題のあった表面硬化装甲板は、イジョルスキー鉄鋼製作所によって材質が改善された。 主武装である45 mm 砲は、M1930(1K)対戦車砲を戦車砲向けに改修したB-3(5K)の口径拡大型であり、M1932(20K)と命名された。これは単純にスケールアップされたものであるが、肩付けによる人力旋回だったものが、砲塔が大型化したこともあり、旋回ハンドルを使うように変更されている。この砲は装甲貫徹力が向上しただけでなく、榴弾の装薬が37 mm 砲の22 g に対し118 g と増大し、支援砲撃に用いる場合にも格段に威力を増していた。 BT-2に比べ砲塔内部の容積を大きくするため全体に大型化されただけでなく、後方に向かってバスル(張り出し)部が追加された。これは初期の型では工具箱のような小さなものであったが、後に砲塔側面装甲に沿って一体化した大型のものとなり、砲塔上のハッチも二枚となった。このバスル内部には即応弾薬が搭載できるが、指揮官用のBT-5TU(ベテー・ピャーチ・テウー)では71TK-1無線器が収納され、ハチマキ状のアンテナが付けられている。これは263輌が生産されたが、一見して指揮官用と識別できるので、ノモンハン事件では真っ先に攻撃され撃破されてしまったという。またこの無線器は戦闘中には扱いづらく、使用されることは少なかったという。なおこの砲塔はT-26など、他のソ連軍戦車と共通のデザインであった。主砲の外防盾はプレス加工による一体型もあったが、曲げ加工した装甲を溶接組み立てした型の方が写真では多く見られる。 BT-2では鋳鋼製のスポーク型転綸で、後にスチール製でプレス加工のディスク型転綸装備になったが、BT-5では最初からディスク型が使われている。これは鋳造型より軽量であった。 BT-5では試作車の段階から、車体後部に大型の円筒形マフラーと機関室グリル上に異物混入防止用の金網製カバーが装着されている。しかしスペイン内戦やノモンハン事件などで火炎瓶による被害が発生し、高熱を発するマフラーが撤去され、後のBT-7同様に金網製カバーの後部から突き出す形の延長型排気管に変更された。''ベテー・ピャーチ・テウー)では71TK-1無線器が収納され、ハチマキ状のアンテナが付けられている。これは263輌が生産されたが、一見して指揮官用と識別できるので、ノモンハン事件では真っ先に攻撃され撃破されてしまったという。またこの無線器は戦闘中には扱いづらく、使用されることは少なかったという。なおこの砲塔はT-26など、他のソ連軍戦車と共通のデザインであった。主砲の外防盾はプレス加工による一体型もあったが、曲げ加工した装甲を溶接組み立てした型の方が写真では多く見られる。 BT-2では鋳鋼製のスポーク型転綸で、後にスチール製でプレス加工のディスク型転綸装備になったが、BT-5では最初からディスク型が使われている。これは鋳造型より軽量であった。 BT-5では試作車の段階から、車体後部に大型の円筒形マフラーと機関室グリル上に異物混入防止用の金網製カバーが装着されている。しかしスペイン内戦やノモンハン事件などで火炎瓶による被害が発生し、高熱を発するマフラーが撤去され、後のBT-7同様に金網製カバーの後部から突き出す形の延長型排気管に変更された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「BT-5」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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